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トビアスと天使 (Tobias and the Angel)

ヘンドリック・ハウト、アダム・エルスハイマーに基づく (Hendrick Goudt, after Adam Elsheimer)

国立西洋美術館に所蔵されているヘンドリック・ハウト(Hendrick Goudt)がアダム・エルスハイマー(Adam Elsheimer)の原画に基づいて制作したエングレーヴィング「トビアスと天使」は、旧約聖書外典「トビト記」の一場面を描いた作品です。この版画は、エルスハイマーが確立したドラマティックな光の表現を、ハウトの精緻なエングレーヴィング技法によって見事に再現しています。

作品の姿と内容

画面の中央には、二人の人物が旅の途中で立ち止まる姿が描かれています。右側に立つのは、若き日のトビアス。彼の視線は、左側の人物、つまり大天使ラファエル(ラファエル)に向けられています。トビアスの手には大きな魚が握られており、その体はまだ生々しく、表面には鱗の光沢が見て取れます。彼の足元には忠実な犬が寄り添い、頭を低くしてトビアスを見上げています。ラファエルは優雅な身のこなしで、左手をトビアスの肩に置き、穏やかながらも威厳のある表情で彼に語りかけているようです。その背中からは、大きく広がる翼が印象的に描かれ、聖なる存在であることを示唆しています。

画面全体は深い闇の中にあり、人物たちは光によって劇的に浮かび上がっています。光源は画面の左上、あるいは人物たちのすぐ近くに設定されているかのように見え、強い光とそれによって生まれる深い影のコントラストが際立っています。特に、トビアスの顔や手、ラファエルの顔や翼の表面、そして魚の体には光が集まり、立体感と存在感を強調しています。背景には木々や岩肌がぼんやりと描かれ、夜の風景や洞窟のような陰鬱な雰囲気を醸し出していますが、その奥には、光を帯びた遠景の町並みがわずかに見え、物語の舞台が広大な世界であることを示唆しています。ハウトはエングレーヴィング特有の細密な線描を駆使し、人物の衣服の襞(ひだ)や肌の質感、羽根の繊細さまでをも表現しており、その描写は絵画的な奥行きと感情的な深みを見る者に伝えます。

背景・経緯・意図

この作品は、17世紀初頭に活動したオランダの画家ヘンドリック・ハウトが、ドイツ出身でローマで活躍した画家アダム・エルスハイマーの絵画を版画化したものです。エルスハイマーは、光と影の劇的な対比を用いるキアロスクーロ(明暗法)の画家として知られ、夜の情景や宗教的な主題を多く描きました。彼の絵画は小品ながらも詩情豊かで、バロック期の芸術家たちに大きな影響を与えました。

ハウトは、エルスハイマーの絵画を版画として再現することに尽力した版画家です。エルスハイマーの作品は希少であり、そのほとんどが個人蔵であったため、ハウトによる版画は、エルスハイマーの芸術を広く世に知らしめる上で重要な役割を果たしました。ハウトはエルスハイマーの表現を深く理解し、その絵画的な効果を版画という異なる媒体でいかに再現するかという課題に取り組みました。この「トビアスと天使」も、エルスハイマーの原画が持つドラマティックな光の効果や物語性を、版画の特性を活かして表現しようとするハウトの意図が強く感じられます。当時の人々にとって、聖書の物語は信仰生活において不可欠なものであり、視覚的に物語を追体験できる版画は、絵画に比べて手軽に入手できるメディアとして高い需要がありました。

技法や素材

本作は「エングレーヴィング」という技法で制作されています。エングレーヴィングは、銅版画の一種であり、ビュラン(タガネ)と呼ばれる鋼鉄製の尖った道具を用いて、銅版に直接線を彫り込んでいく直接凹版(おうはん)技法です。彫り込まれた線にインクを詰め、湿らせた紙を置いて圧力をかけることで、銅版の溝に詰まったインクが紙に転写され、シャープで精密な線描が得られます。

ハウトは、エングレーヴィングの特性を最大限に活かし、エルスハイマーの絵画が持つ繊細な光と影の階調を表現するために、卓越した技術を発揮しています。彼は、線の太さや深さ、線の密度や交差のさせ方(クロスハッチング)を巧みに操作することで、明暗のグラデーションや質感の違いを表現しました。特に、光が当たる部分と影になる部分のコントラストは、この技法ならではのシャープさと力強さを持っています。服のしわの質感、魚の鱗の光沢、天使の翼の繊細な羽根の表現など、細部にわたる描写は、ビュランという硬質な道具で描かれたとは思えないほどの柔らかさと深みを持っています。この精緻な技法は、視覚的な情報量が豊かであるだけでなく、作品の荘厳な雰囲気を高める効果も果たしています。

意味

「トビアスと天使」は、旧約聖書外典の「トビト記」に記された物語を題材としています。この物語は、盲目の父トビトのために薬を求めて旅に出た息子トビアスが、途中で出会った「アザリア」と名乗る人物(実際は大天使ラファエル)の助けを得て、様々な困難を乗り越え、ついには父の視力を取り戻すというものです。

作品の中心にあるモチーフである「トビアス」と「大天使ラファエル」は、「神の導き」と「信仰による癒し」を象徴しています。旅の途中でトビアスが手に入れた魚の内臓は、父の目の病を治す薬となり、悪霊を追い払う力も持つとされています。また、トビアスに常に寄り添う「犬」は、忠誠心や友情の象徴として描かれることが多いモチーフです。この物語は、旅という人生のメタファー(隠喩)を通じて、神の加護と摂理、そして困難に直面した時の信仰の重要性を説いています。旅の途上でトビアスはラファエルの助言を受け入れ、従うことで最終的に目的を達成し、肉体的・精神的な救済を得ます。この作品は、当時の人々が抱いていた信仰心や、人生の困難に対する希望を視覚的に表現するものであり、鑑賞者に対して精神的な慰めや教訓を与えようとする意図が込められています。

評価や影響

ヘンドリック・ハウトによる「トビアスと天使」のエングレーヴィングは、制作当時から高く評価され、アダム・エルスハイマーの芸術が広く認知される上で決定的な役割を果たしました。エルスハイマーの絵画作品は、その精密な描写とドラマティックな光の表現、そして小規模ながらも深い叙情性によって、同時代の芸術家やコレクターから絶賛されましたが、作品数が少なく、特定の顧客に限られていました。ハウトの版画は、そうしたエルスハイマーの「幻の作品」ともいえる芸術を、より多くの人々が手にとって鑑賞できる形にしたのです。

ハウトのエングレーヴィング技術は非常に高く、エルスハイマーの絵画的な効果、特に夜景における光の強烈なコントラストや、人物の表情や感情の機微を、版画の細密な線描によって見事に再現しました。この複製を通じて、エルスハイマーが追求したキアロスクーロの表現や、風景の中に人物を配した物語画の新しい形式は、ピーテル・パウル・ルーベンス(Rubens)やレンブラント(Rembrandt)をはじめとする、当時のネーデルラント(オランダ・フランドル)の多くの画家たちに影響を与えました。特に、夜の情景や劇的な光の描写は、ユトレヒト・カラヴァッジョ派(Utrecht Caravaggisti)などの画家たちに受け継がれ、バロック美術における明暗表現の発展に寄与しました。

現代においても、ハウトの「トビアスと天使」は、単なる複製版画としてではなく、エルスハイマーの芸術に対する深い理解と、それを版画という媒体で再構築するハウト自身の芸術的才能を示すものとして、美術史において重要な位置を占めています。国立西洋美術館に所蔵されているこの作品は、17世紀のヨーロッパにおける絵画と版画の相互関係、そして芸術の普及における版画の役割を理解するための貴重な資料となっています。