オーディオガイド トップに戻る
0:00
0:00

『大牟田五十景』 全54点

江上茂雄

江上茂雄(えがみしげお)による絵画シリーズ『大牟田(おおむた)五十景』は、全54点からなる大規模な作品群であり、福岡県大牟田市の多様な風景を主題に、その土地の歴史と人々の営みを深い洞察をもって描き出しています。

作品の姿と内容

このシリーズは、大牟田という特定の都市の情景を、多角的な視点から捉え、54点もの作品を通して提示しています。個々の作品は、炭鉱の遺構が残る重厚な産業風景から、市民の日常が息づく生活道路、緑豊かな公園の木々、そして有明海に面した沿岸の広がりまで、その対象は多岐にわたると推測されます。色彩は、大牟田の気候や時間帯に応じて、時に煤煙(ばい煙)にけむるような鈍い灰色や茶色が基調となり、重厚な雰囲気を作り出しているかもしれません。また、夏の強い日差しが照りつける青い空や、夕焼けに染まる茜色の空が描かれ、光の移ろいが巧みに表現されている可能性も考えられます。構図は、遠景に工場群が霞む広大な俯瞰(ふかん)図から、路傍の草花や建物の細部に焦点を当てたクローズアップまで、多様な視点が用いられているでしょう。荒々しい筆致で描かれた岩肌や、流れるような線で描かれた波など、素材の質感を伝えるための工夫が見受けられるはずです。全体として、各作品は独立した美しさを持つと同時に、シリーズ全体で大牟田の包括的なポートレートを構成していると考えられます。

背景・経緯・意図

江上茂雄が『大牟田五十景』を制作した背景には、日本の近代化を支えた炭鉱都市大牟田の、時代とともに移り変わる姿への眼差しがあったと推測されます。大牟田はかつて三井三池炭鉱(みつみいけたんこう)を擁し、日本の経済成長を牽引した産業都市でしたが、エネルギー革命の進展とともに炭鉱は閉山し、街は大きな変革期を迎えていました。このような時代において、江上は失われゆく風景、あるいは変化していく街の姿を、美術作品として記録することに強い動機を見出したのではないでしょうか。彼のこれまでの作品群に見られるように、自然や身近な風景への深い愛情と、時の流れや記憶への郷愁にも似た感情が、『大牟田五十景』にも通底していると考えられます。このシリーズは単なる風景の描写に留まらず、変わりゆく故郷の歴史と人々の生活への鎮魂歌(レクイエム)であり、未来へのメッセージでもあったと推察されます。

技法や素材

『大牟田五十景』に使用された技法としては、油彩画が主であると推測されます。油絵具は色の深みと豊かな階調表現が可能であり、長期保存にも優れているため、大規模なシリーズ作品に適しています。江上は、対象物の質感や光の具合を的確に捉えるために、厚塗りのインパスト技法や、透明感のあるグレーズ技法など、様々な筆致を使い分けていた可能性が高いです。例えば、炭鉱の硬質な構造物や工場の煙突を描く際には、力強いタッチでマチエール(絵肌)を強調し、逆に空や水面のような流動的な要素には、滑らかな筆運びで空気感や透明感を表現したかもしれません。支持体はキャンバスや木製パネルが考えられ、それぞれの素材特性を活かした表現が追求されたでしょう。また、54点もの作品を制作するにあたり、屋外での写生(スケッチ)を繰り返し、その場の空気感や色彩の印象を捉えるための工夫が凝らされていたと想像されます。

意味

『大牟田五十景』の「五十景」というタイトルは、葛飾北斎(かつしかほくさい)の「富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」をはじめとする、日本の伝統的な名所絵(めいしょえ)のシリーズ構成を想起させます。これは、大牟田という特定の地域を、単なる地方都市としてではなく、普遍的な美しさや歴史的意義を持つ「景」として昇華させようとする作者の意図が込められていると考えられます。各々の風景は、個別の情景を描きつつも、全体として大牟田という土地のアイデンティティ、産業の盛衰、そしてそこに暮らす人々の記憶と感情の集積を象徴しています。このシリーズは、経済成長の光と影、自然と人工物の対比、あるいは故郷への郷愁といった、普遍的なテーマを内包しており、鑑賞者に対し、自らの故郷や身近な風景が持つ意味を再考させる契機を与えるものと解釈できます。

評価や影響

『大牟田五十景』は、地域に根ざした大規模な芸術作品として、発表当時から大きな注目を集めたと推測されます。特に、大牟田の住民にとっては、見慣れた風景が芸術作品として昇華されることで、街への愛着や誇りを再認識する機会となったでしょう。美術史的な観点からは、日本の近代美術における地域主義の表現として、また、産業遺産や変貌する都市風景を主題とした絵画の重要な事例として位置づけられる可能性があります。後世の作家や研究者にとっては、失われゆく日本の風景や地域のアイデンティティを考察する上での貴重な資料となると同時に、風景画の新たな可能性を探るインスピレーション源ともなり得るでしょう。このシリーズは、特定の場所を深く掘り下げることで、普遍的な感動や示唆を与える芸術の力を改めて示す作品であると言えます。