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海のくもりII

江上茂雄

風景画家・江上茂雄(えがみしげお)による作品「海のくもりII」は、その画業を象徴するクレヨン画の傑作の一つです。この作品は、作者が身近な風景を独自の感性で捉え、その本質を表現しようと試みた姿勢を明確に示しています。

作品の姿と内容

画面全体を支配するのは、重くたれ込めた曇り空と、その下に広がる鉛色の海です。地平線は低く設定され、画面の大部分を空が占める構図となっており、広大な自然の営みを肌で感じるような奥行きと広がりを生み出しています。空の色は、単一の灰色ではなく、淡い青みやわずかな紫を帯びた、複雑なグラデーションによって表現されており、光の少ない曇り空特有の湿った空気感が見事に捉えられています。画面の遠景には、雲の切れ間からわずかに光が差し込み、海の表面に淡い輝きを与えている箇所も散見されます。近景の海面は、うねりを伴った波が幾重にも押し寄せ、その一つ一つが厚みのある筆致で描かれているため、海水の持つ重量感や動きが視覚的に伝わってきます。画面の奥には、有明海の干潟に立つ小屋がひっそりと描かれており、これが風景の中に人間生活の痕跡をわずかに示し、自然の雄大さとの対比を際立たせています。色彩は全体的に抑制されており、重厚でありながらも静謐な雰囲気が漂い、観る者を深く思索へと誘います。

背景・経緯・意図

江上茂雄は1912年に福岡県に生まれ、15歳で三井三池鉱業所建築課に入社後、45年間会社員として勤務しながら絵を描き続けた、いわゆる「日曜画家」でした。彼の絵画制作は、高価な油絵具ではなく、身近なクレヨンやクレパスを主な画材としていました。本作「海のくもりII」は1960年前後に制作されたと推測されており、彼が定年退職し水彩画に取り組む前の、クレヨン・クレパス画の創作期の代表的な作品群に位置づけられます。この時期は、高度経済成長が始まりつつあった日本の社会において、日常生活の中に美を見出し、それを描き留めることに彼の制作の意図がありました。特に「II」という番号が示すように、この主題が繰り返し描かれたことは、画家が同じ海の風景の中に異なる表情や感情を発見しようと試みた証であり、単なる写生を超えた、対象との深い対話がそこにあったと考えられます。彼は、故郷である大牟田や荒尾近郊の身近な風景を主なモチーフとし、その風景が持つ本質的な美しさを探求し続けました。

技法や素材

「海のくもりII」は、クレヨンを用いて制作されています。江上茂雄は、クレヨンやクレパスを「身近な画材」として生涯にわたり愛用しました。この作品では、クレヨンの多色を厚く塗り重ねることで、独特のマチエール(絵肌)が創出されています。厚塗りの技法によって、画面には微妙な凹凸が生まれ、特に海の陰影や雲の重なりが深く、そして豊かに表現されています。クレヨンという画材が持つ、不透明で油性の特性を最大限に活かし、重ね塗りをすることで色の深みと混色による複雑な色彩変化を実現しています。これは、油絵具に比べて安価でありながらも、作者独自の工夫によって、対象の質感や大気の動き、光の移ろいを捉えるための効果的な表現手段となったと言えるでしょう。

意味

作品の主要なモチーフである「海」と「曇り空」は、普遍的な象徴性を持ちます。海は生命の源であり、同時に広大で予測不可能な自然の力を象徴します。また、曇り空は、静けさや内省、あるいは少しの憂鬱さを感じさせる一方で、柔らかな光が風景全体を包み込むような、穏やかな時間をも示唆します。江上茂雄が描いたのは、故郷の有明海(ありあけかい)の風景と考えられ、その日常的な光景の中に、見る人の心に訴えかける「美」や「感情」を見出そうとした画家自身の視点が込められています。単に風景を描写するだけでなく、見る人の記憶や感情に寄り添うような、叙情的な意味合いが強く感じられます。干潟に立つ小屋は、人間の存在が広大な自然の中にいかに小さいか、しかし同時にその自然と共存する営みが確かにあることを示唆し、観る者に共感と安堵をもたらす要素となっています。

評価や影響

江上茂雄は、会社員として働きながら絵を描き続けた「日曜画家」であり、「路傍の画家」とも呼ばれました。彼の作品は、生前は一部で知られる存在でしたが、2010年に家族によって自費出版された『江上茂雄作品集』をきっかけに、2013年には福岡県立美術館などで大規模な展覧会が開催され、広くその存在が知られるようになりました。彼は101歳で亡くなる直前まで風景画を描き続け、生涯に約20,000点にも及ぶ作品を残したとされており、その膨大な制作量と独自の画風は、美術界において特異な存在として評価されています。特に、クレヨンやクレパスといった身近な画材で、油絵にも匹敵する重厚な表現を追求した点は、独学で絵画表現を極めた彼の才能を示すものです。彼の作品は、華やかな美術史の主流とは異なる場所で、しかし確かな眼差しで日常の風景を見つめ続けた画家の精神性を後世に伝え、多くの人々に感動を与え続けています。