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厨子入五大明王像

湛海

江戸時代中期の真言律宗(しんごんりっしゅう)の僧であり仏師(ぶっし)である湛海(たんかい)が、元禄(げんろく)十四年(1701年)に制作した「厨子入五大明王像」は、その強烈な信仰心と卓越した造形力を示す傑作です。この像は、厨子(ずし)に納められた五躯(く)の明王像から成り、現在、奈良の宝山寺(ほうざんじ)に安置されています。1912年には国の重要文化財に指定され、湛海作品の中でも特に重要な位置を占めています。

作品の姿と内容

本作は、木造漆塗りの厨子の中に、五躯の明王像が安置されています。中央には中心尊である不動明王(ふどうみょうおう)が、金泥塗(きんでいぬり)を施された木像で鎮座しています。その周囲には、向かって右前方に降三世明王(ごうざんぜみょうおう)、左前方に大威徳明王(だいいとくみょうおう)、左後方に金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)、右後方に軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)の四明王が、それぞれ彩色(さいしき)された木像で配されています。この配置は一般的な東西南北に基づく五大明王の配置とは異なり、湛海の独自の解釈によるものと見られます。

中央の不動明王は、右手に煩悩を断ち切る智慧(ちえ)の剣を、左手に衆生を救い上げる羂索(けんさく)を執り、短く巻き毛の髪を左に垂らしています。どっしりと座した姿は威厳に満ち、その金色の姿は力強さと荘厳さを際立たせています。四明王はいずれも激しい忿怒(ふんぬ)の表情を見せており、躍動感あふれる姿で表現されています。降三世明王はヒンドゥー教(きょう)の最高神(さいこうしん)である大自在天(だいじざいてん)とその妃(きさき)烏摩(うま)を踏みつける姿で、密教の優位性を示しています。大威徳明王は六面六臂(ろっぴ)六足(ろくそく)で水牛に乗る姿、軍荼利明王と金剛夜叉明王は片足を蹴(け)り上げるような動的な姿勢で表されています。各像の背面には火炎(かえん)光背(こうはい)が取り付けられ、怒りの感情を視覚的に強調しています。特に四明王の足元には、それぞれの台座(大自在天・烏摩妃、踏み割り蓮華座(れんげざ)など)に設けられた柄穴(つかあな)に像を差し込む構造となっており、全体の安定感と躍動感を両立させています。

背景・経緯・意図

湛海は寛永(かんえい)六年(1629年)に伊勢(いせ)に生まれ、十八歳で出家しました。江戸時代初期の僧侶であり仏師として知られ、大和(やまと)生駒山(いこまやま)に宝山寺を開いた中興開山(ちゅうこうかいざん)です。彼は学問よりも修行(ぎょう)こそが人々を救う道であるとの信念を抱き、千日間の木食行(もくじきぎょう)を行うなど、熱烈な密教僧としてその生涯を苦修練行(くしゅれんぎょう)に捧げました。この「厨子入五大明王像」は、湛海が七十三歳の時に制作されたもので、彼の深い信仰心と造像にかける情熱の結晶と言えます。

江戸時代の仏像彫刻は、ときに形式化が進む傾向も見られましたが、湛海の作品はそうした風潮の中で、並外れた気迫(きはく)と力強さを放っていました。彼は不動明王を中心とした明王像を多く制作しており、これは密教の鎮護国家(ちんごこっか)や息災(そくさい)延命(えんめい)を祈る修法(しゅほう)において五大明王が重要な本尊(ほんぞん)とされたことと深く関連しています。自身の行を通じて得た悟りの境地や、人々の悩みを取り除くための祈祷(きとう)を実践する中で、湛海は仏敵を降伏(ごうぶく)させ、人々を救済する明王の威徳(いとく)を、その彫像に込めようとしたと考えられます。この像は、当時の社会情勢や人々の信仰、そして湛海自身の求道(ぐどう)の精神を色濃く反映していると言えるでしょう。

技法や素材

この「厨子入五大明王像」に用いられている素材は、厨子が木造漆塗りであるのに対し、五躯の明王像は、厨子扉朱漆銘(しゅうるしめい)によれば赤栴檀(しゃくせんだん)という木材が用いられています。赤栴檀は硬く、緻密な彫刻に適した特性を持つ木材です。木造彫刻の技法としては、一本の木材から主要部分を彫り出す一木造(いちぼくづくり)や、複数の木材を組み合わせて制作する寄木造(よせぎづくり)などがありますが、湛海の作風や同時代の仏像彫刻の傾向から、重厚感を保ちつつ細部まで表現できる技法が用いられたと推測されます。

表面の仕上げにおいては、不動明王には金泥塗りが、他の四明王には鮮やかな彩色が施されています。彩色には膠(にかわ)で溶いた顔料(がんりょう)が用いられ、下地(したじ)には胡粉(ごふん)や白土(はくど)が使われるのが一般的です。明王像の火炎光背(かえんこうはい)は鋼板製(こうばんせい)であることも確認されており、金属素材を効果的に取り入れることで、忿怒相の力強さを一層引き立てています。また、各像の冠飾(かんしょく)や冠結(かんけつ)、持物(じもつ)も銅板製(どうばんせい)であり、異なる素材を組み合わせることで、精巧さと華やかさを加えています。これらの技法や素材の選択は、江戸時代の仏像制作における伝統的な手法を踏まえつつ、湛海の表現意図を最大限に具現化するための工夫が凝らされていることを示しています。

意味

五大明王は、密教における重要な尊像(そんぞう)であり、大日如来(だいにちにょらい)の教令輪身(きょうりょうりんじん)、すなわち仏法に帰依(きえ)しない衆生を力ずくで導き、外敵や煩悩を打ち砕くための忿怒相の化身(けしん)とされています。中央の不動明王は、すべての明王の主尊(しゅそん)であり、揺るぎない智慧と慈悲(じひ)を象徴し、迷える人々を救済する役割を担います。周囲の四明王はそれぞれ異なる方位を守護し、さまざまな悪や障害を調伏(ちょうぶく)する役割を持っています。

降三世明王は貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)という三毒(さんどく)を打ち破り、軍荼利明王は人々の心身の穢(けが)れを清め、諸々の障害を取り除きます。大威徳明王は諸悪を降伏させ、国家の安寧(あんねい)や個人の幸福をもたらす力を持ち、金剛夜叉明王はすべての悪しき執着(しゅうじゃく)や魔障(ましょう)を破壊するとされています。

これらの明王像が厨子に納められていることは、単に像を保護するだけでなく、その内部に神聖な空間を創出し、信仰の対象としての尊厳を高める意味があります。厨子はもともと食物などを大切に納める棚を指しましたが、仏教の伝来とともに仏像や経典を安置する仏具として発展しました。湛海の「厨子入五大明王像」は、この秘仏(ひぶつ)的な性格を強めることで、明王たちの持つ絶大な力をより一層神秘的かつ身近なものとして礼拝(らいはい)の対象としようとする意図が込められていると言えるでしょう。

評価や影響

湛海の「厨子入五大明王像」は、江戸時代の仏像彫刻において特異な存在として高い評価を受けています。当時の仏像制作が形式化しがちであった中で、湛海が自身の熱烈な信仰に基づいて生み出した像は、見る者に強い気迫と精神性を伝える力強い造形として注目されました。彼の作品、特に不動明王像に代表される忿怒形の像は、その迫力とリアリティにおいて他の追随を許さないと評されています。

この厨子入五大明王像が元禄十四年(1701年)に制作され、その後、1912年に重要文化財に指定されたことは、その美術史的価値と文化財としての重要性が時代を超えて認められていることを示しています。湛海は生駒山宝山寺を再興した中興開山として、その宗教活動とともに、独自の仏像制作を通して後世に大きな影響を与えました。彼の仏像は、単なる美術品としてだけでなく、信仰の対象として多くの人々の精神を支え、護摩(ごま)供養(くよう)などの密教儀式(ぎしき)の求子(ぐし)や安泰(あんたい)祈願(きがん)を通じて、貴族から庶民に至るまで幅広い層からの尊崇(そんすう)を集めました。湛海の仏像は、江戸時代の仏教美術における力強い潮流の一つを形成し、その後の仏師たちにも示唆(しさ)を与えたと考えられています。