真言密教の儀式に用いられる重要な護法神像として知られる「十二天像」は、特に平安時代後期、大治2年(1127年)に京都の東寺(教王護国寺)で制作されたものが著名です。この十二天像は、羅刹天(らせつてん)、水天(すいてん)、風天(ふうてん)をはじめとする十二体の天部(てんぶ)で構成されており、密教法会の道場を守護する役割を担っています。制作当初の作者名は明確ではありませんが、当時の絵仏師(えぶっし)たちの高度な技術が集約された集団制作によるものと推測されています。
本作品は、縦144センチメートル、横126センチメートルを超える大型の掛軸形式の仏画であり、各尊像がそれぞれ一幅に描かれています。 羅刹天は、西南方を守護する護法神で、元来インド神話の鬼神(きじん)とされますが、仏教に取り入れられてからは仏法守護の神となりました。その姿は、しばしば忿怒(ふんぬ)の表情で描かれ、髪を逆立て、宝剣(ほうけん)や鎧(よろい)を身につけ、魔獣を踏まえる図像も見られます。しかし、本作品では水盤のような台座に右足の指を反らせて仁王立ちする姿で表現されていると推測されます。 水天は西方を守護する河水(かすい)の神であり、十二天の中では特に優美な容貌で表されることが多いのが特徴です。龍王(りゅうおう)たちの主として水界を司り、大きな亀に乗って頭に蛇を表すのが典型的な図像です。本作品の水天も、暗い背景からほの白く浮かび上がる水の精のような優美な姿で、着衣は柔らかく華やかな彩色が施されていると伝えられています。 風天は西北方を守護する風の神で、その表現は古様でスケールが大きいと評されます。一般的には鹿や山羊に乗って旗や風袋(ふうたい)を持つ姿で描かれることが多いですが、本作品ではどのような乗り物に乗っているかは定かではありません。全体的にまろやかな形と調和の取れたプロポーションが特徴であり、細やかな描写と入念な仕上げが施されています。
「十二天像」は、平安時代から宮中で毎年正月に国家の安泰、天皇の安穏、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈る密教儀礼「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」で用いられました。この修法は承和元年(834年)に空海(くうかい)の奏請(そうせい)により宮中真言院で始まりました。 現存する東寺伝来の十二天像は、大治2年(1127年)3月に東寺の宝蔵(ほうぞう)が火災に遭い、それまで使用されていた仏画が焼失したため、新たに制作されたものです。当初制作された十二天像は、東寺長者(ちょうじゃ)の勝覚(しょうかく)の命により東大寺僧(とうだいじそう)の覚仁(かくにん)が、弘法大師(こうぼうだいし)空海の手本に基づいて描いたとされますが、時の最高実力者である鳥羽院(とばいん)から「疎荒(そこう)」と批判を受けました。そのため、改めて仁和寺(にんなじ)円堂(えんどう)の後壁画(こうへきが)を底本として新写されたものが、今日に伝わる本作品群であるとされています。この経緯からは、当時の宮廷が仏画の質に対して極めて高い要求を持っていたこと、そして国家鎮護の儀礼に用いられる仏画がいかに重要視されていたかがうかがえます。
本作品は絹本(けんぽん)著色(ちゃくしょく)の技法を用いており、絹の布地に墨で下絵を描き、その上から彩色を施しています。彩色には、色をぼかさずに段階的にグラデーションを表す繧繝彩色(うんげんさいしき)や、金箔(きんぱく)を細かく切って貼り重ねる截金(きりかね)文様といった、平安時代後期における仏画の最盛期を代表する高度な装飾技法が用いられています。特に截金は、その繊細な文様が衣服などの地模様として目を奪う華やかさを生み出し、現在の技術では再現が困難なほどの根気を要する作業であったとされます。また、膝の部分には、周辺を明るくぼかす照暈(てりぐま)の技法も用いられており、これらの技術の組み合わせが作品に典雅(てんが)な趣(おもむき)をもたらしています。
「十二天像」の「十二天」とは、もとは古代インド神話に登場する神々であり、後に仏教に取り入れられ護法神(ごほうしん)となったものです。彼らは密教における儀礼空間、特に真言院(しんごんいん)で行われる「後七日御修法」のような大法会において、東西南北および四隅(しぐう)、さらに上下と日月(にちげつ)の十二方位を守護する存在として位置づけられています。 羅刹天は西南方を守護し、もとは悪魔の王ともいわれた鬼神でしたが、仏法に帰依(きえ)して護法神となりました。その存在は、仏の教えを妨げる一切の障難(しょうなん)を取り除くことを意味すると考えられます。 水天は西方を守護し、水の神として降雨(こうう)をもたらし、水難(すいなん)除けや航海安全のご利益(ごりやく)があると信仰されました。その優美な姿は、清浄(せいじょう)と豊穣(ほうじょう)を象徴しています。 風天は西北方を守護する風の神であり、煩悩(ぼんのう)や災厄(さいやく)を吹き払い、浄化する力を象徴すると考えられます。 これらの十二天は、方位と天体を守護する象徴として、密教の儀式空間を構成し、国家安泰や人々の平和を祈る法会の効果を確かなものにするための重要な意味を持っています。
大治2年(1127年)に新調された「十二天像」は、鳥羽院からの厳しい批判を受けて再制作された経緯を持つことから、当時の宮廷が求める極めて高い芸術的、宗教的基準を満たした作品として評価されています。豊かな色彩と精緻な截金文様(きりかねもんよう)の組み合わせは、平安貴族文化の爛熟期を代表する名品中の名品と称され、日本仏画の最盛期の様式を伝える典雅な趣を持つ傑作と位置づけられています。 この十二天像は、後七日御修法(ごしちにちみしほ)という国家鎮護の重要な儀式に不可欠な存在として、長きにわたり東寺に伝えられてきました。現存する十二天像の作例の中では、奈良・西大寺本(なら・さいだいじぼん)が最古とされますが、東寺本はそれに次ぐ制作時期であり、その後の十二天像の図像や様式に大きな影響を与えたと考えられています。特に、当初の坐像形式から屏風形式に合わせた立像形式の十二天像が制作されたのは12世紀以降と考えられており、本作品群はその萌芽を示すものと推測されます。 現代においては、これらの十二天像は単なる宗教美術としてだけでなく、平安時代後期の絵画史における重要な遺例として、その芸術的価値と歴史的意義が高く評価され、国宝に指定されています。密教美術の荘厳さと華やかさを現代に伝える貴重な文化財として、多くの展覧会で公開されるたびに、その緻密な表現と奥深い精神性によって観る者を魅了し続けています。