杉本博司
杉本博司による「光学硝子五輪塔 335」は、写真と彫刻を融合させ、時間や宇宙といった根源的なテーマを探求する作品です。ノルウェー海、ベステローデン諸島を捉えたモノクロームのフィルムを内包するこの作品は、高さ15.5センチメートルの光学ガラス製の五輪塔として、鑑賞者に深い瞑想的な体験を促します。
作品「光学硝子五輪塔(こうがくがらすごりんとう) 335」は、幅7.6センチメートル、高さ15.5センチメートル、奥行き7.6センチメートルの、透明な光学ガラスによって精緻に造形された五輪塔(ごりんとう)です。五輪塔とは、仏教思想における宇宙の五大要素、「地・水・火・風・空」を象徴する五つの異なる形状を積み重ねた日本古来の供養塔の形式で、本作品もその伝統的な構成を厳密に踏襲しています。
最も下部に位置する「地」の要素は方形の立方体として表され、その上に円形の「水」の要素が、さらにその上には三角形の「火」の要素が、そして半月形の「風」の要素が重ねられます。最上部には、尖った宝珠(ほうじゅ)型の「空」の要素が配されています。
この光学ガラス製の透明な塔の中央、特に円形に象られた「水」の部分には、一枚のモノクロームのフィルムが封入されています。このフィルムには、1990年にノルウェー海、ベステローデン諸島で撮影された海景が、画面中央に引かれた水平線を境に、空と海のみで構成される静謐な構図で表現されています。透明なガラスと、その内部に閉じ込められた永遠とも思える海の風景が、見る者の視覚に深い印象を与えます。
杉本博司は、1970年代後半以降、「ジオラマ」、「劇場」、「海景」といった代表的なモノクローム写真のシリーズを立て続けに発表し、一貫して個人の存在を超越した時間の積み重なりや流れを捉えるためのコンセプトと方法を模索してきました。 「海景」シリーズは、「人類が最初に見た風景は海ではなかっただろうか」「古代人の見た風景を現代人が同じように見ることは可能か」といった問いから生まれ、悠久の時間を隔てて変わらぬ姿を見せる海の姿を捉える試みです。
「光学硝子五輪塔」シリーズは、この「海景」シリーズの哲学を、三次元の彫刻として具現化したものです。杉本自身は、神や仏が去ってしまった現代において、唯一帰依すべき対象があるとすれば、それは自身の意識の源である「あの海景」であると述べています。 彼は、仏教における五大の思想と、自らの「海景」を結びつけることで、現代における宇宙観や信仰のあり方を提示しようとしました。この作品では、1990年に撮影された「ノルウェー海、ベステローデン諸島」のフィルムを、2011年に制作された光学ガラスの五輪塔に納めることで、過去の時間の記録が現在の構造に封じ込められるという、時間軸を超えた表現が試みられています。
杉本は古美術商としての活動を通じて古美術品に日常的に接し、それらの歴史的文脈における価値を再評価する過程で、自身の現代美術作品もまた「遠い未来において発掘される考古遺物」として相対化する視座を培いました。 この五輪塔は、古代の信仰の形態を現代の素材と写真で再解釈することで、彼のこうした歴史観と時間への問いが凝縮されています。
本作品には、素材として光学ガラスとモノクロフィルムが用いられています。光学ガラスは、高い透明度と均一な屈折率を持つ特殊なガラスであり、光の透過性が非常に優れているのが特徴です。これにより、内部に封入された海景のフィルムが、まるで水中に漂うかのように鮮明に視認できるようになっています。五輪塔の各要素(地・水・火・風・空)は、この光学ガラスを精緻に成形することで制作されています。
内部に納められたモノクロフィルムは、杉本博司の代表的な写真シリーズである「海景」の一つです。杉本は通常、8×10インチの大判カメラと長時間露光の技法を用いて撮影を行います。 これにより、画面は極めて滑らかな階調と深い陰影を持ち、詳細な情報が削ぎ落とされたかのような、時の流れを超越した普遍的な風景を表現しています。フィルムをガラスの中に封入する技法は、写真が単なる平面的な記録媒体ではなく、立体的な存在として、また時間そのものを内包するモニュメントとして提示されることを可能にしています。
五輪塔は、仏教、特に密教思想において、宇宙を構成する五大要素(地、水、火、風、空)を象徴するものです。 それぞれの形状には意味が込められており、方形の地輪は物質的な安定と堅固さ、円形の水輪は流動性と調和、三角形の火輪は変容とエネルギー、半月形の風輪は成長と運動、そして宝珠形の空輪は精神的な領域や無限の空間を表すとされます。 この作品において、杉本は「水」の要素に、自身の「海景」シリーズのフィルムを封入することで、五大の思想と、彼が探求し続ける時間と空間の概念を融合させています。
「海景」は、人類が初めて目にしたであろう原初の風景を写し出すことで、普遍的な時間や意識の起源を問うものです。 それを五輪塔という宇宙の縮図の中に置くことで、作品は、個別の海景が持つ具体的な場所性や時間性を超え、宇宙全体を包括するような哲学的な意味合いを帯びます。これは、現代において失われつつある精神的な支柱、あるいは「帰依すべき対象」として、杉本が海景に託した意味と深く響き合っています。 光学ガラスという透明な素材は、物質としての存在感を保ちつつも、その向こうに無限の空間や時間を感じさせることで、この作品に込められた宇宙観、そして無常観をより強調しています。
杉本博司は、写真というメディアを用いて時間や存在の根源を問う独自の表現で、国際的に高い評価を得てきた現代美術家です。彼の作品は、ニューヨーク近代美術館、メトロポリタン美術館など、世界の主要な美術館に永久収蔵されています。 「光学硝子五輪塔」シリーズは、彼の代表作である「海景」の概念を、彫刻という新たな形式で発展させた点で注目されます。
このシリーズは、単なる写真の展示に留まらず、日本の古来の宗教観や宇宙観を現代の素材と技術で再解釈するという、杉本の多岐にわたる活動(写真、建築、伝統芸能、古美術など)の集大成とも言えます。 特に、古美術商としての経験から培われた五輪塔への造詣と、写真家としての「海景」への探求が融合したことで、鑑賞者は作品を通じて、物質的な存在と精神的な世界、有限な時間と無限の時間の対峙を深く考察する機会を与えられます。
この作品は、写真が持つ記録性や再現性といった特性を超え、時間、記憶、そして精神性といった非物質的な概念をいかに視覚化するかという、現代美術における重要な問いに新たな視点をもたらしました。杉本博司の作品は、現代人が科学や技術によって世界を理解しようとする中で見失いがちな、美と信仰という根源的な問題への回帰を促すものとして、美術史において重要な位置を占めています。