杉本博司
現代美術作家・杉本博司による作品《Opticks 075》は、2018年に制作された発色現像方式印画(はっしょくげんぞうほうしきいんが)であり、119.4 × 119.4cmの正方形フォーマットで光の神秘を捉えています。この作品は、彼が長年探求してきた「Opticks(オプティックス)」シリーズの一環として、アイザック・ニュートンの光学実験に触発され、光のスペクトルを視覚化したものです。
《Opticks 075》は、正方形の画面いっぱいに広がる鮮やかな色彩のグラデーションによって構成されています。画面の左から右、あるいは上から下へと、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫といった虹の七色がゆるやかに、しかし確実に移り変わる様子が描写されています。これらの色は単一の帯としてではなく、それぞれの色が無限の階調(かいちょう)を含み、隣り合う色と曖昧に混じり合いながら、あるいは明確な境界を保ちながら展開しています。光そのものが絵の具として用いられたかのような、深遠でどこまでも続く色彩の奥行きが感じられ、物質的な絵の具では表現し得ない、純粋な光の現象が視覚化されています。特に、色が闇へと溶け込んでいくような部分では、その階調の変化は神秘的な様相を呈し、鑑賞者を色彩の無限の世界へと誘います。各色の粒子が微細に異なり、刻々と変化する様子が捉えられているかのようです。
杉本博司は、長年にわたり時間、歴史、そして人間の認識といった根源的なテーマを探求し続けてきました。彼の「Opticks」シリーズは、1704年にアイザック・ニュートンが著した『光学(OPTICKS)』に端を発する光のプリズム実験の再現から着想を得ています。ニュートンは、白色光が実際には複数の色から構成されていることをプリズムを用いた実験で証明しました。杉本は、この科学的な発見を芸術の領域で再解釈しようと試み、約15年もの歳月をかけてこのシリーズを完成させました。彼の意図は、科学的な認知によって「捨象(しゃしょう)されてしまった色の間」にこそ世界を実感できると語り、科学が神を必要としなくなった現代において、そこからこぼれ落ちる世界を掬(すく)い取ることがアートの役割であると考えています。この作品が制作された2018年は、杉本がこの光の探求を深化させていた時期にあたります。彼は、自身の作品が時間、空間、光、そして現実と幻想といった写真の本質的な問いを押し広げるものであると考えています。
《Opticks 075》に用いられているのは、発色現像方式印画(クロモジェニック・プリント)という技法です。これは、写真のネガやポジ、またはデジタル画像からカラープリントを作成する際に広く用いられるプロセスで、銀塩乳剤を含む3層のゼラチンがそれぞれ異なる色素結合剤(だいくっけつざい)を含み、発色現像処理によってシアン、マゼンタ、イエローの有機染料を形成し、フルカラー画像を生成します。 杉本博司は、このシリーズのためにニュートンが発明した観測装置を改良し、自身の東京のアトリエに設置した巨大なプリズムを通して太陽光を分光させ、そのスペクトルをポラロイドフィルムで直接記録しました。特に、2009年から2010年にかけて、製造中止となる前の最後のポラロイドフィルムの在庫を使用し、そのわずかな画面の中に光の微細な粒子や無限の階調を閉じ込めました。その後、これらのポラロイド画像をデジタル技術でスキャンし、大判の発色現像方式印画へと拡大プリントすることで、圧倒的なカラーフィールドの作品として仕上げています。杉本自身は「光を絵の具として使った新しい絵(ペインティング)を描くことができた」と表現しており、写真という媒体の限界を超えて、光そのものを絵画的な表現へと昇華させる独自の工夫が見られます。
《Opticks 075》は、光と色彩の根源的な意味を問いかける作品です。アイザック・ニュートンが科学的に解明した光のスペクトルを題材とすることで、理性的な認識と感覚的な体験の間の領域を視覚化しています。作品に表現された虹色のグラデーションは、自然科学が定義する七色だけでなく、「色と色の隙間」に存在する無限の階調に焦点を当てることで、人間の知覚が捉えることのできる世界の豊かさを示唆しています。 杉本博司は、このシリーズを通じて、写真が単なる現実の記録装置ではなく、時間や空間、そして目に見えないものを可視化する哲学的な探求の手段であることを示しています。彼の他の作品シリーズ(「海景」や「劇場」など)と同様に、本作もまた、対象の物理的な存在を超えた、本質的な「時間」や「存在」の概念を探るものと言えます。光の分散という科学現象を芸術作品として提示することで、科学と芸術の境界を横断し、客観的な真実と主観的な体験の間に広がる、深遠な意味の空間を提示しています。
杉本博司の「Opticks」シリーズは、彼が長年モノクローム写真の分野で築き上げてきた評価とは異なる、初の本格的なカラー作品として注目を集めました。このシリーズは、従来の彼の代表作である「海景」や「劇場」シリーズが持つ静謐さや時間の可視化といったテーマを、光と色彩という新たな視点から深化させていると評価されています。 作品発表当時から、ニュートンの光学実験という科学的根拠に基づきながらも、その表現は極めて絵画的であり、光を「絵の具」として用いた「新しい絵画」であるという杉本自身の言葉が、批評家や鑑賞者から共感を得ています。このシリーズは、写真が単に外界を写し取るだけでなく、光そのものを素材として抽象的な表現を可能にするという、写真媒体の新たな可能性を示した点で美術史における重要な位置を占めています。杉本博司は、写真技術のデジタル化が進む現代において、「最後の銀塩写真家」を自称し、写真という媒体が持つ物理的な特性や歴史的意義を再考する作品を制作し続けており、「Opticks」シリーズもまた、絶滅しつつある銀塩写真という媒体への思索と、光という普遍的なテーマへの探求が融合した作品として高く評価されています。