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〈ドーミエによる劇場のクロッキー〉1 / <Sketches of the Theatre by Daumier> 1 / [上] カフェの入り口 [下] 楽屋の入り口 / [Below the upper vignette] The intermission in the café [Below the lower vignette] The intermission in the foyer

オノレ・ドーミエ / Honoré Daumier

1852年に制作されたオノレ・ドーミエによるリトグラフ連作〈ドーミエによる劇場のクロッキー〉より、「1」と題されたこの作品は、当時のパリにおける劇場の様子を上下二段の場面構成で捉えています。上段は「カフェの入り口」、下段は「楽屋の入り口」と副題が与えられており、劇場に集う人々の休憩時間の情景を活写しています。

作品の姿と内容

このリトグラフは、左右に細長い二つの画面が上下に配置された構成を採っています。上段の画面は、劇場のカフェの入り口付近の喧騒を描いています。画面左手前には、やや大柄な体格の男性が、左腕を腰に当て、堂々とした姿勢で立っています。その横顔は鼻筋が通り、口元にはわずかに笑みが浮かんでいるようにも見えます。彼は厚手の外套(がいとう)を羽織り、当時流行のシルクハットを被り、富裕なブルジョワ層の一員であることを示唆しています。彼の視線の先には、カフェへと続く開口部から押し寄せる人々や、すでにカフェ内で談笑する男女の群衆が見て取れます。画面全体には、数多くの人物がひしめき合い、それぞれが異なる方向を向き、談笑したり、身振り手振りで語り合ったりする様子が、躍動感のある線描で表現されています。画面中央には、奥へと続く廊下のような空間が見え、そこにも人影が途切れることなく続いています。

下段の画面は、楽屋の入り口付近、あるいは劇場内の休憩スペースを描いたもので、上段とは異なる、より親密な雰囲気を示しています。画面右端には、やや画面からはみ出す形で、一人の男性の背中が大きく描かれています。彼はコートを羽織り、頭には帽子を被っており、画面左方向へと何かを見つめているようです。彼の視線の先には、壁にもたれかかるように立つ二人組の女性や、テーブルに肘をついて談笑する男女の姿が見えます。これらの人物群は、上段のカフェの群衆と比べると人数は少なく、個々の人物の表情や仕草がより丁寧に描かれています。特に、画面中央付近に立つ女性は、エレガントなドレスを身につけ、顔にははっきりとした表情を浮かべており、画面手前側にいる男性と何らかの会話を交わしているように見えます。全体的に、光と影のコントラストが強く、人物たちの顔の陰影や衣服のドレープ(ひだ)が、リトグラフ特有の黒の濃淡で巧みに表現されています。

背景・経緯・意図

この作品が制作された1852年は、フランスでナポレオン三世による第二帝政が確立された時期にあたります。前年にクーデターによって権力を掌握したルイ・ナポレオンが大統領に就任し、政治的には安定期を迎えつつありましたが、社会は急速な近代化の波の中にありました。パリは、オスマン男爵による大規模な都市改造が始まる直前であり、劇場は新しいブルジョワジーの社交の場として、また娯楽の中心地として隆盛を極めていました。

オノレ・ドーミエは、こうした時代の中で、新聞や風刺雑誌のために膨大な数のリトグラフを制作し、当時の社会や政治、そして人間の営みを鋭い視点で捉え続けました。劇場の情景は、彼が繰り返し取り上げたテーマの一つです。舞台上の華やかな演劇だけでなく、舞台裏や観客席、休憩中の人々といった、劇場の「裏側」や「周辺」にこそ、人間の真の姿や社会の縮図が表れると考えていた節があります。

この作品もまた、劇場の幕間(まくあい)という一時的な停止状態の中で、人々がどのように振る舞い、どのような人間模様を繰り広げているのかを観察し、記録しようとするドーミエの意図が込められていると考えられます。当時のパリの人々にとって、劇場は単に演劇を鑑賞する場であるだけでなく、最新の流行を披露し、知り合いと交流し、そして人間観察を楽しむ社交の場でもありました。ドーミエは、そうした日常の一コマを切り取ることで、時代の空気や人々の心理を読者へと伝達しようと試みていたのでしょう。

技法や素材

本作品は「リトグラフ」という版画技法を用いて制作されています。リトグラフは、18世紀末にドイツのアロイス・ゼネフェルダーによって発明された平版印刷の一種で、水と油の反発作用を利用します。具体的には、石版石や金属板の表面に油性のクレヨンやインクで絵を描き、その後、アラビアゴム溶液と硝酸で処理することで、描画部分が油性インクを受け付け、非描画部分が水を受け付けるようにします。これにより、インクが描画部分のみに付着し、紙に転写される仕組みです。

ドーミエは、このリトグラフの特性を最大限に活かした作家として知られています。彼は石版石に直接描くことで、デッサンやスケッチのような自由で表現豊かな線を可能にしました。本作品においても、人物の輪郭線は力強く、時に省略されつつも、彼らの動きや感情を伝えるのに十分な情報量を持っています。また、黒の濃淡や陰影の表現が非常に豊かであり、光が当たる部分と影になる部分のコントラストによって、人物や空間に立体感と奥行きを与えています。この技法は、大量印刷に適しており、当時の新聞や雑誌に挿絵や風刺画として掲載されるドーミエの作品にとって不可欠なものでした。

意味

〈ドーミエによる劇場のクロッキー〉1に描かれた劇場の幕間は、単なる休憩時間の描写にとどまらず、19世紀半ばのパリ社会における人間の行動様式や階級、そして虚栄心に対するドーミエの洞察が込められています。上段のカフェの入り口の喧騒は、社交の場としての劇場の側面を強調しており、人々が互いに見せびらかし、評価し合う「見られることと見ること」の文化を象徴しています。登場人物たちは、それぞれの装いを凝らし、世間話に興じ、あたかも舞台上の役者のように振る舞っています。

下段の楽屋の入り口付近の情景は、上段に比べてより個人的な交流や、演者と観客、あるいは観客同士の親密な会話の場を暗示しています。劇場の華やかさの裏側にある、人間味あふれる一コマが切り取られていると解釈できます。これらの場面を通して、ドーミエは、舞台上で繰り広げられる「劇」と、日常生活の中で人々が演じる「劇」との間の類似性を浮かび上がらせています。

作品全体としては、人間の行動や心理に対する普遍的な観察眼が貫かれています。人々の表情や身振り手振りからは、好奇心、退屈、興味、自己顕示欲といった多様な感情が読み取れ、ドーミエが常に抱いていた人間への深い洞察が感じられます。彼は、こうした日常的な光景の中にこそ、社会の本質や普遍的な人間性が隠されていると考えていたのでしょう。

評価や影響

オノレ・ドーミエは、「カリカチュアのミケランジェロ」とも称されるほど、その優れた描写力と鋭い社会批評精神で同時代から高く評価されていました。彼の膨大なリトグラフ作品は、当時のパリの風俗、政治、社会のあらゆる側面を記録しており、後世の研究者にとっても貴重な歴史資料となっています。この〈ドーミエによる劇場のクロッキー〉連作もまた、彼の代表的なテーマの一つである劇場と、それに集う人々への観察眼が際立っており、当時の人々の生活様式や社交文化を知る上で重要な作品群です。

ドーミエの作品は、彼が生きた時代の美術界で主流であったアカデミズムの範疇には収まらないものでしたが、その芸術性は多くの同業者や批評家から認められていました。特に、彼がリトグラフという「大衆芸術」の媒体を通じて、現代の都市生活や人間の喜劇と悲劇を描き出したことは、その後の写実主義や印象主義の画家たちに大きな影響を与えました。エドゥアール・マネやエドガー・ドガといった画家たちは、ドーミエと同様に、劇場やカフェといった近代都市の情景を繰り返し描きました。

現代においてドーミエは、単なる風刺画家としてだけでなく、近代絵画の先駆者の一人として、美術史において確固たる地位を確立しています。彼の人間観察の鋭さ、表現の力強さ、そしてリトグラフという媒体への深い理解は、今なお多くの人々に感銘を与え続けています。この作品群は、彼の芸術家としての多様な側面を示す一例であり、当時の社会に対する彼の批評眼と、人間に対する深い共感を伝えています。