パブロ・ピカソ
パブロ・ピカソが1932年にフランスのボワジュルーで制作した油彩作品「読書」は、彼のミューズであり愛人であったマリー=テレーズ・ワルテルをモデルに描かれたものです。この作品は、ピカソの「熱愛の時代」と呼ばれる時期の代表作の一つとして知られています。
キャンバスに描かれたこの作品は、一人の女性が椅子に座り、膝の上に置かれた本を読んでいる、あるいはうたた寝をしている姿を捉えています。女性の体は、キュビスム以降のピカソの作風が示すように、複数の視点が同時に表現され、分解されて再構築されたかのような構成です。顔は横顔と正面顔が同時に現れ、視線は斜めを向いているにもかかわらず、鑑賞者の方を見つめているかのようです。身体は豊満な曲線で描かれ、特にふくよかな胸が強調されています。腕や脚は家具の一部のように大きく曲線を描き、画面いっぱいに詰め込まれるように配置されています。肌の色は紫がかった色で表現され、胸部はミントグリーン、その他に黒や赤茶、黄色と緑のストライプといった大胆な原色が用いられています。冷たい肌の色調は、人間らしい肉の温度を消し、彫刻のような硬質な質感を想起させます。人物と椅子、そして背景の部屋の壁がパズルのように組み合わさり、全体として一つの巨大なオブジェと化したような印象を与えます。膝の上の本は小さく、女性の身体の量感に比べると目立たない存在です。
この作品が制作された1932年、パブロ・ピカソは50代前半で、シュルレアリスム運動の影響を強く受けていました。この時期は、ピカソが22歳の若き愛人、マリー=テレーズ・ワルテルとの情熱的な関係にあった「熱愛の時代」と美術批評家たちによって名付けられています。ピカソは1927年にワルテルと出会い、当時既婚者であったため二人の関係は秘密裏に進められました。彼はそれまで、ワルテルの特徴を他の作品の背景にさりげなく忍ばせて描くことが多かったとされます。 「読書」は1931年12月から1932年1月にかけて制作されました。この作品が後に回顧展で展示された際、ピカソの妻オルガ・コクラヴァは、絵の中の女性の顔の特徴が自分のものではないことに気づき、彼らの関係に亀裂が入るきっかけとなったと言われています。ピカソは「本を読む人」を描くことで、身体は静止していても意識だけが旅をする瞬間を描き出そうとしたと考えられます。この時期、ピカソはパリから約60キロ離れたボワジュルーにシャトーを購入し、彫刻制作にも再び取り組んでいました。ワルテルの特徴は、彼にとって古典的な様式で表現するのに適していると感じられたとされています。
本作は油彩でカンヴァスに描かれています。ピカソはこの作品において、黄や緑といった明るい原色を大胆に使用している点が特徴です。1930年代の彼の作品には、色彩の形式的な実験と顔料の選択、そしてその適用方法に新たな力強さが見られます。アンリ・マティスに見られるような赤と緑のダイナミックな対比や、パターンを取り入れることで、キャンバスに新しい活力が爆発しているかのようです。また、合成キュビスムの延長線上にある、心臓のような形をした女性の顔も特徴的です。色の断片が密接に絡み合うことで空間的な奥行きが平坦化されており、垂直の緑と黄色の幅広いストライプが、女性の流れるような形を支える色調の骨組みとなっています。
「読書」に描かれたマリー=テレーズ・ワルテルは、ピカソの芸術において「黄金のミューズ」と位置付けられる存在です。彼女の膝の上に置かれた本は、一部の批評家によって「セクシャル・シンボル」と解釈されており、官能的なエロティシズムと幸福感を表現していると評されています。この作品は、ワルテルの持つ肉体的な魅力と、若さゆえの性的無垢さがピカソに与えた強い影響を反映しており、彼の彼女に対する熱烈な欲望が、キャリアの中でも特に求められるイメージの数々を生み出しました。読書という行為は、静止した身体の中で意識が内省や想像の世界へと旅する瞬間を象徴しており、この絵は読書中の人間の意識が分解され、再配置されたものとも表現されています。
「読書」が制作された1930年代初頭は、ピカソ作品の市場価格が彼の生涯で最も好条件であった時期の一つとされています。この絵は1989年にオークションで580万ドルで取引され、1996年にはニューヨークのクリスティーズで再出品されましたが、その際は売却には至りませんでした。しかし、2011年にロンドンのサザビーズで再びオークションにかけられると、当初の見積もりを大きく上回る2500万ポンド(約4000万ドル)で匿名入札者によって落札され、その芸術的価値と市場価値の高さが改めて示されました。 この作品を含む1932年のピカソの作品群は、彼の創造性の頂点の一つとして特別視されています。同年には、ジョルジュ・プティ画廊で初の回顧展が開催され、1901年から1932年までの236作品が展示されるなど、ピカソの芸術家としての地位が確立された時期でもありました。マリー=テレーズ・ワルテルをモデルにした一連の作品は、その官能性と調和によって、美術史において「夢のような恍惚感と自己沈思のムード」を特徴とする重要なフェーズを形成しています。ピカソはキュビスムで理知的に対象を分析する一方で、古典主義的な作品も手掛け、常に変幻自在な作風を展開しました。彼の作品は、20世紀の美術における革新的な発展を担い、絵画だけでなく彫刻や版画、陶芸など幅広い分野に貢献しました。