山種美術館開館六十周年を記念する特別展第一弾「川合玉堂(かわいぎょくどう) ―なつかしい日本の情景―」が、二〇二六年五月十六日より七月二十六日まで開催されます。日本初の日本画専門美術館として一九六六年に開館した山種美術館が、この記念すべき年に選んだのは、近代日本画壇の巨匠、川合玉堂の画業を深く掘り下げる展覧会です。日本の山河とそこに息づく四季の移ろい、そして田園に暮らす人々の情景をこよなく愛し、温かな眼差しで描き続けた玉堂の作品約七十点が、当館創立者の山﨑種二(やまざきたねじ)が蒐集した七十一点のコレクションを中心に紹介されます。本展は、観る者それぞれの心に、古き良き日本の原風景を呼び覚ますことでしょう。
本展の最大の魅力は、山種美術館が誇る川合玉堂コレクションの豊かさと、創立者山﨑種二と画家玉堂との深いつながりから生まれる、稀有な「作品が語る物語」にあります。山種美術館は、数ある日本画家のなかでも玉堂の作品を七十一点も所蔵しており、これは玉堂作品を鑑賞する上で極めて重要な機会を提供します。山﨑種二は、玉堂の芸術だけでなくその温厚な人柄にも深く惹かれ、しばしば奥多摩の玉堂邸を訪れるほど親密な交流を重ねました。この特別な関係が、玉堂の初期から晩年まで、その画業の変遷を網羅する質の高いコレクション形成へとつながったのです。
展覧会全体を通して注目すべきは、玉堂が日本の伝統的な絵画技法を継承しつつ、いかに近代的な風景画を確立していったかという点です。京都で円山(まるやま)・四条派(しじょうは)の写生(しゃせい)を、東京で橋本雅邦(はしもとがほう)に狩野派(かのうは)の力強い線描を学んだ玉堂は、これら異なる流派の特長を見事に融合させ、さらに西洋絵画の遠近法も取り入れながら、奥行きと詩情あふれる独自の画風を築き上げました。その作品群は、単なる写実を超え、見る者の心に静かに染み入るような情感を湛えています。
玉堂が描いたのは、富士山や松島といった特定の「名所」だけでなく、名もない山里や川辺、田畑といった、ごく身近な日本の情景です。そして、それらの風景のなかに、農作業に勤しむ人々、渡し舟に乗る人々、あるいは動物たちの姿を点景として配し、自然と人間が織りなす営みを情感豊かに表現しました。特に、四季の移ろいや光の表現には秀でたものがあり、移りゆく日本の美しさを余すところなく捉えています。本展は、明治、大正、昭和という激動の時代を生きた玉堂が、常に日本の「原風景」を見つめ、慈しんだその心の軌跡を辿る、貴重な機会となるでしょう。
本展は、川合玉堂の約七十年にわたる画業を、その研鑽期から円熟期、そして晩年に至るまで、時系列に沿って紹介する構成となっています。観る者は、玉堂が京都での初期の学びから、東京での新たな展開、そして奥多摩での自然との対話を通じて、いかにして「なつかしい日本の情景」を描き続けたかを、あたかも画家の生涯を追体験するかのように辿ることができます。各章は、玉堂の芸術的探求の段階と、その時代背景が作品に与えた影響を深く理解できるよう、綿密に構成されています。これにより、単一の作品の鑑賞に留まらず、玉堂芸術全体の広がりと深みを多角的に味わうことができるでしょう。
川合玉堂の画業は、一八七三年(明治六年)に愛知県で生を受け、少年期を岐阜で過ごしたことに始まります。この岐阜での経験が、玉堂が生涯にわたり日本の豊かな自然を愛し、風景を描き続ける原点となりました。一八八七年(明治二十年)、十四歳で京都へ赴いた玉堂は、まず四条派の望月玉泉(もちづきぎょくせん)の門に入り、写生に基づく描写力を養いました。その後、一八九〇年(明治二十三年)には円山派の幸野楳嶺(こうのばいれい)の画塾「大成義会(たいせいぎかい)」に移り、円山・四条派の伝統的な技法を深く学びます。この京都時代には、早くも一八九〇年の第三回内国勧業博覧会(ないこくかんぎょうはくらんかい)で「春渓群猿図(しゅんけいぐんえんず)」と「秋渓群鹿図(しゅうけいぐんかず)」が入選するなど、その才能の萌芽を見せています。
この章の注目作品の一つは、一八九五年(明治二十八年)に京都で開催された第四回内国勧業博覧会に出品され、三等銅牌(さんとうどうはい)を受賞した《鵜飼(うかい)》です。岐阜で育った玉堂にとって、長良川(ながらがわ)の鵜飼は幼い頃から馴染み深い題材であり、生涯にわたって繰り返し描かれたテーマでした。この初期の代表作には、そそり立つ岸壁の下、篝火(かがりび)の煙がたなびく中、漁をする鵜舟(うぶね)の情景が、円山・四条派で培った写実的な筆致と緊張感をもって描かれています。
この博覧会で玉堂は、橋本雅邦の「龍虎図(りゅうこず)」や「釈迦十六羅漢図(しゃかじゅうろくらかんず)」に深い感銘を受け、翌一八九六年(明治二十九年)に上京し、雅邦の門下に入ります。雅邦のもとで、玉堂は狩野派の力強い線描と構成、そして精神性を学び、その画風に新たな深みを与えました。雅邦の影響が色濃い明治期の作品として《渓山秋趣(けいざんしゅうしゅ)》などが挙げられ、京都で培った写生に、狩野派的な筆致が加わることで、後の玉堂芸術の基盤が築かれていく過程を見ることができます。また、一八九八年(明治三十一年)には、岡倉天心(おかくらてんしん)や横山大観(よこやまたいかん)らとともに日本美術院(にほんびじゅついん)の創設に参加し、近代日本画壇の中心的存在として活動を開始します。この章では、玉堂が様々な流派の技法を貪欲に吸収し、自己の芸術を確立しようと研鑽を重ねた、若き日の情熱を感じ取ることができるでしょう。
明治後期から大正期にかけて、川合玉堂は、伝統的な山水画(さんすいがお)の世界から脱却し、近代的な「風景画」という新たなジャンルを確立することに注力しました。京都で学んだ円山・四条派の写実性、東京で体得した狩野派の力強い骨格、そして大和絵(やまとえ)や琳派(りんぱ)といった古典絵画の研究、さらには西洋画の遠近法(えんきんほう)や光の表現を取り入れることで、玉堂は独自の画風を深化させていきます。
一九〇七年(明治四十年)に東京勧業博覧会(とうきょうかんぎょうはくらんかい)で一等賞を受賞した《二日月(ふつかづき)》は、この時期の玉堂芸術の転換点を示す重要な作品です。この作品では、現実的な光、空間、色彩の表現が試みられ、日本の風景画に新しい局面を切り開いたと評価されています。続く一九〇七年(明治四十年)には、第一回文部省美術展覧会(文展:ぶんてん)の審査員に任命され、以降、官展(かんてん)において中心的な役割を果たしていきます。
大正期には、琳派の装飾性や構図を取り入れた作品も手掛けるようになります。中でも一九一九年(大正八年)頃に制作された《紅白梅(こうはくばい)》(玉堂美術館蔵)は、金箔(きんぱく)地に白梅と紅梅を描いた六曲一双(ろっきょくいっそう)の屏風(びょうぶ)であり、尾形光琳(おがたこうりん)の「紅白梅図屏風(こうはくばいずびょうぶ)」を意識しつつも、たらし込みの技法と遠近感を表現した独自の構図が特徴です。白梅と紅梅で遠近差をつけ、鳥を点在させるなど、古典的な様式の中に玉堂ならではの工夫が凝らされています。このような試みは、玉堂が単に伝統を墨守するだけでなく、常に新しい表現を模索していたことを示しています。
この章では、玉堂が多様な画法を自在に操り、近代日本画としての風景画をいかに確立していったか、その揺るぎない技術と革新への意欲を肌で感じることができるでしょう。山水画が持つ理想郷(りそうきょう)の表現から、より身近で具体的な日本の自然へと視点を移し、そこに人々の暮らしを重ねることで、玉堂は「日本人にとってどこか懐かしさを覚える情景」を描き出す基盤を築きました。
昭和初期から戦中期にかけて、川合玉堂の芸術は円熟期を迎え、日本の四季の美しさと、そこに溶け込む人々の慎ましい営みを詩情豊かに描き出す、独自の風景画のスタイルを確立しました。この時期の作品には、郷愁(きょうしゅう)を誘う穏やかな情景が多く見られ、玉堂の自然に対する深い愛情と、人間への温かな眼差しが色濃く反映されています。
この章で紹介される作品の一つ、昭和初期に制作された《石楠花(しゃくなげ)》は、古典的な筆法と写実的な風景表現が見事に融合した一例です。輪郭線(りんかくせん)を用いて力強く、かつ色鮮やかに描かれた石楠花の背後には、薄く描かれた残雪の連峰が広がり、奥行きのある空間表現を生み出しています。これは、狩野派の様式を取り入れつつも、玉堂独自の感性で再解釈された風景表現の真骨頂と言えるでしょう。
また、この時期の代表作として、一九四〇年(昭和十五年)の《春風春水(しゅんぷうしゅんすい)》が挙げられます。この作品には、玉堂が好んで描いたモチーフの一つである渡し舟(わたしぶね)が登場します。山桜(やまざくら)が舞い散る山間部の川を、農家の女性が乗る渡し舟が静かに進む情景は、タイトル通り暖かな春の風が感じられる、ほほ笑ましい日常が描かれています。渓流の水の流れや透明感も巧みに表現されており、日本画の絵具(えのぐ)を熟知した玉堂の卓越した技量が見て取れます。
さらに、一九四三年(昭和十八年)に制作された《山雨一過(さんういっか)》も、この時期の玉堂芸術の深みを示す作品です。ひと雨(ひとあめ)過ぎた峠道(とうげみち)を人馬(じんめ)が下る様子が描かれ、遠くの山々から峠に吹き抜ける、雨上がりの爽快な風が画面から伝わってくるようです。戦時中という厳しい時代にあっても、玉堂はこうした日本の自然の美しさと、それとともに生きる人々の姿を静かに見つめ、描き続けました。この章では、玉堂が描く素朴でありながらも心に響く風景画の世界を通じて、失われゆく日本の原風景への慈愛(じあい)と、その中に宿る人々の尊厳(そんげん)を感じ取ることができるでしょう。
第二次世界大戦の戦禍が激しさを増す中、一九四四年(昭和十九年)に東京都西多摩郡(現・青梅市(おうめし))の御岳(みたけ)に疎開(そかい)した川合玉堂は、以降、一九五七年(昭和三十二年)に八十三歳でその生涯を終えるまで、この奥多摩の地を終の棲家(ついのすみか)と定めました。晩年の玉堂は、画壇の中心人物としての重責から離れ、御岳の豊かな自然と、そこに暮らす人々の穏やかな日常に深く心を寄せ、制作を続けました。この時期の作品は、玉堂芸術の真骨頂(しんこっちょう)とも言える、素朴で叙情豊かな日本の原風景が描かれ、見る者の心に深い安らぎと郷愁を誘います。
この章で紹介される代表作の一つが、一九四五年(昭和二十年)に描かれた《早乙女(さおとめ)》です。戦時中に奥多摩で制作されたこの田植えの風景画は、手拭いを姉様被り(あねさまかぶり)にして働く女性たちの表情が明るく、苗(なえ)はみずみずしく、田の水は豊かに満ちています。牧歌的な情景でありながら、その背景には戦時下の厳しい現実があり、玉堂が失われゆく日本の原風景への静かな慈愛と、自然とともに生きる人々への温かい眼差しを込めて描いたことが伝わってきます。円山・四条派と狩野派の様式を取り入れつつ、俯瞰的(ふかんてき)な構図や、琳派のたらし込みの表現も用いることで、自然と人間の調和が見事に表現されています。
戦後、一九四六年(昭和二十一年)の第一回日展(にってん)に出品された《朝晴(あさばれ)》も、晩年の玉堂を代表する名作です。戦後の混乱期にあっても、玉堂は清々しい朝の情景を描き出し、人々に希望と安寧(あんねい)をもたらそうとしたかのようです。晩年の玉堂は、墨を主とした作品も多く手掛け、紙の白さを雪の質感として活かす雪景(せっけい)表現など、繊細な筆致と淡い彩色で自然の多様な表情を捉えることに長けていました。
また、玉堂は絵画制作だけでなく、自作の和歌や俳句(はいく)集を刊行するなど、詩的な資質も持ち合わせていました。晩年になるにつれて、その傾向は一層強まり、奥多摩の四季の移ろいを鋭敏な感性で捉え、俳諧味(はいかいみ)を増した風景表現へと昇華させていきました。この章では、戦後の玉堂が、自らが暮らす奥多摩の自然と人々の暮らしに深く寄り添いながら生み出した、心温まる作品群を通じて、画家が到達した境地とその豊かな精神性を感じることができるでしょう。
山種美術館開館六十周年記念特別展「川合玉堂 ―なつかしい日本の情景―」は、明治から昭和にかけて近代日本画壇を牽引(けんいん)した巨匠、川合玉堂の画業の全貌を、山種美術館ならではの充実したコレクションで辿る、またとない機会です。京都での円山・四条派の写生、東京での橋本雅邦に学ぶ狩野派の力強い線描、そして琳派や西洋画の要素を取り入れながら、玉堂は日本の伝統的な美意識と革新的な表現を融合させ、独自の「近代風景画」を確立しました。
本展では、若き日の研鑽を象徴する《鵜飼》から、琳派の様式美を取り入れた《紅白梅》、そして円熟期に描かれた《石楠花》や《春風春水》、さらには奥多摩での穏やかな晩年の境地を示す《早乙女》や《朝晴》に至るまで、約七十点の作品を通じて、玉堂が日本の山河とそこに暮らす人々の姿に注いだ温かい眼差しとその変遷を深く味わうことができます。それぞれの作品は、単なる風景描写に留まらず、四季の移ろいや人々の営みの中に流れる時間、そして空気感までもが、見る者の心に静かに染み入るように表現されています。
山種美術館創立者の山﨑種二と川合玉堂との親密な交流が育んだ七十一点にも及ぶコレクションは、本展の根幹をなし、両者の揺るぎない信頼関係と、玉堂芸術への深い敬意を物語っています。
この展覧会は、郷愁を誘う古き良き日本の情景に触れるとともに、近代日本画の巨匠が時代を超えて私たちに伝えようとした、自然と人間の調和の美しさを再発見する旅となるでしょう。混迷の時代だからこそ、玉堂が描き出した静かで温かい日本の風景は、私たちに心の安らぎと、未来への希望を与えてくれるに違いありません。ぜひこの機会に山種美術館を訪れ、川合玉堂が紡ぎ出した珠玉の作品世界をご堪能ください。