川合玉堂
川合玉堂(かわいぎょくどう)の作品「高原帰駄(こうげんきだ)」は、1955年頃に制作された紙本(しほん)・彩色の日本画であり、戦後の激動期にあってなお、変わらぬ日本の自然と人々の営みを詩情豊かに描き出した、円熟期の代表作の一つとして山種美術館に所蔵されています。
本作は、日の傾き始めた高原から、家路につく人々と駄獣(だじゅう)が描かれた情景を捉えています。画面の中央やや下方には、荷物を背負った一頭の牛、あるいは馬といった駄獣が、ゆっくりとした足取りで画面の左手方向へと歩を進めています。その傍らには、労働を終えたであろう人物が付き添い、静かに共に歩む姿が描かれていると推測されます。高原の広がりは、柔らかな墨線と淡い彩色によって奥行きが表現され、手前には、なだらかな起伏を持つ土の道が続き、その両脇には、風になびくかのような草木が揺れています。遠景には、墨の濃淡とぼかしの技法により、複数の山並みが重なり合い、空間の広がりを感じさせます。空は夕焼けに染まる前の、澄んだ薄明かりに包まれ、全体的に抑制された色彩でありながらも、黄昏時特有の静かで叙情的な光が画面全体を覆い、温かみのある雰囲気を醸し出していると考えられます。駄獣や人物の姿は、細部にわたる写実性よりも、その存在が持つ生命感や、一日の終わりに訪れる安堵感が重視され、見る者の心に静かに語りかけるような描写が特徴的です。
本作が制作された1955年頃は、第二次世界大戦終結から十年が経過し、日本が復興から高度経済成長へと向かう過渡期にありました。川合玉堂自身は、1944年(昭和19年)に東京都青梅市御岳(おうめしみたけ)に疎開して以来、終生その地で制作を続け、奥多摩の豊かな自然とそこに暮らす人々の営みを主題としていました。この時期、玉堂は80代を迎え、画業は円熟の極みに達しており、多くの作品が日本の山村風景を穏やかな筆致で描いています。人々が激しい社会変革の中で生活する時代にあって、玉堂は故郷の山河、そしてそこに息づく労働と自然との調和を繰り返し描くことで、日本人が本来持つべき心の安らぎや、時代を超えて変わることのない価値観を提示しようとしたと考えられます。特に1955年には宮中歌会始(きゅうちゅううたかいはじめ)の召人(めしうど)となるなど、文化人としての名声も確立されており、その芸術活動は社会に大きな影響を与えていたと推測されます。
「高原帰駄」は、日本画の伝統的な素材である紙本(しほん)に彩色で描かれています。川合玉堂の画風は、京都で学んだ円山四条派(まるやましじょうは)の写生的な描写力と、東京で橋本雅邦(はしもとがほう)に師事して体得した狩野派(かのうは)の力強い構成力を融合させたものです。本作においても、そうした玉堂ならではの技法が見て取れます。墨の濃淡を巧みに使い分け、対象の輪郭を描き出す線描と、水墨画のようなぼかしの筆致を組み合わせることで、奥行きのある空間表現と、空気感を伴った描写が実現されています。色彩は、過度に華やかさを追求するのではなく、日本の自然が持つ落ち着いた色調を基調とし、時に淡い顔料を重ねることで、時間や季節の移ろいを繊細に表現しています。特に、西洋画の遠近法を自然に取り入れながらも、日本画としての品格を保つ構図は、玉堂の工夫の一つと言えるでしょう。
「高原帰駄」という作品名は、高原での労働を終え、駄獣と共に家路につく様子を示しています。「高原」は自然の広大さや恵みを、「帰駄」は一日の労働の終わりと安息、そして家庭への帰還を象徴しています。戦後の混乱期において、このような牧歌的な風景を描くことは、荒廃からの復興と、変わることのない人間の営みへの肯定、そして平和な日常への希求を内包していたと考えられます。また、駄獣と人間が共に歩む姿は、自然と共生する日本の伝統的な生活様式を表現しており、近代化が進む社会の中で、忘れられがちな精神的な豊かさや、郷愁を呼び起こす意味合いも込められていたと推測されます。
川合玉堂は、横山大観(よこやまたいかん)や竹内栖鳳(たけうちせいほう)と並び、近代日本画の三巨匠の一人として高く評価されています。彼の作品は、一貫して日本の自然とそこに暮らす人々の姿を詩情豊かに描き続け、技巧を誇示することなく、見る者の心に静かに沁み入る表現が特徴とされています。1955年頃の「高原帰駄」のような円熟期の作品は、玉堂が長年培ってきた写実性と叙情性が融合した完成された画風を示しており、当時の日本画壇においても、その普遍的な美しさが称賛されたと考えられます。戦後の日本美術が多様な表現を模索する中で、玉堂の作品は、伝統的な日本の美意識を継承し、人々に心の安らぎを与える存在として重要な位置を占めました。彼の描く風景は、後世の日本画家たちにも多大な影響を与え、日本の風景画の範型の一つとして、今日までその価値が認識されています。