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昭和度 悠紀地方風俗歌屏風(小下図)

川合玉堂

川合玉堂(かわいぎょくどう)の「昭和度 悠紀(ゆき)地方風俗歌屏風(びょうぶ)(小下図(こしたず))」は、1928年(昭和3年)に制作された紙本(しほん)・彩色による絵画であり、御大礼(ごたいれい)に関連して描かれた悠紀地方の風俗を描いた大屏風の制作に向けた、初期の構想を示す貴重な資料です。日本の伝統的な風景や人々の営みを繊細な筆致で捉える玉堂の画業の中でも、国家的な儀式に深く関わる特別な意義を持つ作品群の一つに位置づけられます。

作品の姿と内容

この作品は「小下図」と冠されていることから、最終的な大画面の屏風(びょうぶ)作品の全体構想を示すための、比較的コンパクトな習作(しゅうさく)または試作であると推測されます。画面には、悠紀地方とされた地域の農村風景や、そこで暮らす人々の日常の営みが、詩情豊かに描かれていると考えられます。玉堂の他の作品に見られるように、穏やかな山々、清らかな水辺、そして茅葺(かやぶき)の家屋が点在する集落の様子が、淡い色彩と墨の濃淡で表現されているでしょう。画面の構成としては、広々とした農地で農作業に勤しむ人々、あるいは小川のほとりで洗濯をする女性たち、子どもたちが遊ぶ姿など、当時の日本の農村における素朴で伝統的な生活風景が、複数にわたる場面として巧みに配置されていると想像されます。季節は、豊かな実りを予感させる稲穂が揺れる初秋か、あるいは穏やかな春の耕作風景が選ばれている可能性も高く、季節の移ろいの中で変わらぬ人々の営みが描かれているでしょう。全体として、特定の時間を切り取ったような、静かで調和のとれた世界が広がっていると推測されます。

背景・経緯・意図

本作が制作された1928年(昭和3年)は、昭和天皇(しょうわてんのう)の御大典(ごたいてん)、すなわち即位の礼と大嘗祭(だいじょうさい)が執り行われた重要な年でした。大嘗祭は、天皇が即位した後、初めて新穀を天地神祇(てんちじんぎ)に供え、自らも食すことで、国家と国民の安寧と豊穣(ほうじょう)を祈る儀式です。この大嘗祭には、全国から選ばれた悠紀(ゆき)地方と主基(すき)地方という二つの斎田(さいでん)で収穫された米が供えられます。川合玉堂は、この歴史的な御大礼を記念して、悠紀地方と主基地方それぞれの風俗を描く屏風(びょうぶ)の制作を依頼されたと考えられます。当時の日本社会は、明治維新以降の近代化と西欧化が進む一方で、伝統的な日本の精神や文化を見直そうとする動きも強まっていました。そのような時代背景の中で、玉堂に依頼された屏風は、伝統的な農耕社会の営みと、それが生み出す豊かな恵み、そしてそこにある素朴な人々の生活を、国家的な祝祭の一部として顕彰(けんしょう)し、国民に共有する意図があったと推測されます。玉堂自身も、日本の自然と風土に根ざした美を追求し続けた画家であり、こうした依頼は彼の芸術観と深く合致するものだったでしょう。

技法や素材

「昭和度 悠紀地方風俗歌屏風(小下図)」は、「紙本(しほん)・彩色」という伝統的な日本画の技法で制作されています。紙本は、和紙を支持体として用いるもので、墨の滲(にじ)みや絵具の定着に特有の表現をもたらします。彩色には、岩絵具(いわえのぐ)や水干絵具(すいひえのぐ)といった天然の鉱物や土、植物などから作られた顔料が用いられ、これらを膠(にかわ)で溶いて描かれます。小下図(こしたず)であるため、本制作に比べて荒々しい筆致や、色使いも限定的である可能性がありますが、玉堂ならではの墨による線描(せんびょう)の確かさや、淡い色調による空間表現の萌芽(ほうが)がすでに見て取れると推測されます。特に、山肌の表現や、木々の葉の描写、水面のきらめきなど、自然の情景を写実的に捉えつつも、日本画特有の簡潔で詩的な表現が用いられていることでしょう。下図の段階で、絵具の重ね方や、光の当たり具合による陰影(いんえい)の表現などが試されていることも考えられ、完成作への作者の思考のプロセスがうかがえます。

意味

悠紀地方は、大嘗祭(だいじょうさい)において、その年に新穀を献上する地域として選ばれる特別な意味合いを持つ場所でした。この選定は、亀甲(きっこう)を焼いてその割れ目で吉凶を占う亀卜(きぼく)によって行われるのが通例であり、その地方の豊穣(ほうじょう)と、そこから生まれる新しい天皇の「食」との結びつきは、日本の国体の根源的な意味を象徴するものでした。したがって、川合玉堂が描いた悠紀地方の風俗は、単なる地方の日常風景ではなく、日本の農耕文化と皇室の伝統、そして国家の繁栄への祈りという、多層的な意味が込められています。画面に描かれる田園風景や人々の営みは、米作りを中心とした日本の伝統的な生活様式が、いかに国の根幹を支えてきたかを静かに物語っています。また、そうした営みが、神事と深く結びつき、国民の平和と豊かさの象徴として位置づけられていたことを示唆しています。玉堂の作品は、このような日本の精神性を、具体的な風景と人々の姿を通して視覚化し、国民に再認識させる役割を担っていたと言えるでしょう。

評価や影響

川合玉堂が手掛けた御大礼(ごたいれい)関連の屏風(びょうぶ)は、当時、国家的な慶事(けいじ)を彩る重要な作品として高く評価されました。玉堂は、日本の山河(さんが)と人々の生活を温かく見つめる画風で知られており、この屏風作品も、彼の真骨頂(しんこっちょう)である写実性と詩情豊かな表現が遺憾なく発揮されたものと評価されています。特に、悠紀地方と主基地方の風俗を題材とすることで、日本の伝統文化と農耕社会の美徳を再認識させ、国民の連帯感を高めることに寄与したと考えられます。この「小下図(こしたず)」は、完成作に繋がる貴重な構想段階の資料として、玉堂の制作プロセスや思考を理解する上で非常に重要です。彼の作品は、その後の日本画家たちに、日本の風土や人々の営みを主題とする風景画の新たな可能性を示しました。また、近代化の中で失われつつあった日本の原風景や、伝統的な生活様式を記録し、後世に伝えるという歴史的・文化的な価値も高く評価されています。玉堂は、横山大観(よこやまたいかん)らと共に日本美術院(にほんびじゅついん)の設立に尽力し、日本画の革新と発展に貢献しましたが、その一方で、伝統的な画題や精神性を大切にする姿勢を貫きました。この「昭和度 悠紀地方風俗歌屏風」は、彼のそうした芸術的信条と、時代の要請が見事に融合した作品群として、美術史においても重要な位置を占めています。