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東海道左富士

今村紫紅

横浜美術館で開催されている「没後110年 日本画の革命児 今村紫紅(いまむらしこう)」展において、今村紫紅が1915年(大正4年)に制作した《東海道左富士》が展示されています。この作品は絹本着色(けんぽんちゃくしょく)の軸装(じくそう)で、縦126.5センチメートル、横41.7センチメートルの大きさを持ち、横浜美術館に所蔵されています。

背景・経緯・意図

今村紫紅は明治末から大正初期にかけて活躍した日本画家で、わずか35年(数え年で37年)の生涯の中で、日本画の革新に命を懸け挑んだ「革命児」として知られています。 伝統的な大和絵(やまとえ)や歴史画を松本楓湖(まつもとふうこ)に学び、高い技量を示しながらも、既存の枠にとらわれない自由で主観的な表現を追求しました。 《東海道左富士》が制作された1915年(大正4年)は、紫紅が逝去する前年であり、この時期には日本美術院(にほんびじゅついん)の同人として横山大観(よこやまたいかん)らと共に「東海道五十三次絵巻」の写生旅行に参加するなど、風景画への関心を深めていました。 本作は、西洋文化が急速に流入し、日本画のあり方が問われた時代において、伝統的な名所絵(めいしょえ)の主題である「左富士」を、紫紅ならではの新しい視点と表現で捉えようとした意図があったと推測されます。

技法や素材

本作品は絹を支持体とし、色彩を施した絹本着色(けんぽんちゃくしょく)で、掛軸に仕立てられた軸装(じくそう)の形式をとっています。 今村紫紅の作品は、大胆な筆遣いと構図、そして明るい色彩感覚を特徴としており、伝統的な日本画の技法に加えて、中国南画(なんが)の軽妙な筆致や、西洋の後期印象派に見られる点描(てんびょう)や鮮やかな色彩表現を大胆に取り入れています。 また、琳派(りんぱ)の影響も見られ、金砂子(きんすなご)を多用することで、眩いばかりの光の世界を表現する工夫も凝らされました。 《東海道左富士》においても、これらの特徴的な技法が用いられ、伝統的な風景画に新しさが吹き込まれたと考えられます。

意味

「左富士」とは、東海道(とうかいどう)の吉原(よしわら)(現在の静岡県富士市)付近において、通常は右手に望む富士山が左手に見える珍しい景観を指します。 この地は古くから名所として知られ、歌川広重(うたがわひろしげ)の《東海道五拾三次之内 吉原 左富士》をはじめとする浮世絵(うきよえ)にも頻繁に描かれてきました。 今村紫紅がこの伝統的な主題を選んだことは、古典への深い理解と敬意を示すと同時に、それを自身の革新的な画風で再解釈し、現代的な風景画として昇華させようとする試みであったと解釈できます。旅人が目にするであろう、日常とは異なる富士の姿に、紫紅の自由な精神と既存の価値観を打ち破ろうとする姿勢が込められていると推測されます。

評価や影響

今村紫紅は35歳という若さで夭折(ようせつ)しましたが、その短い生涯の中で残した大胆で独創的な作品群は、当時の画壇に新鮮な刺激を与え、後進の画家たちに多大な影響を与えました。 特に速水御舟(はやみぎょしゅう)ら若い画家たちを指導し、「一度突き詰めたら壊さないと駄目。壊せば誰かが作ってくれる。僕は壊すから君たちは建設してくれたまえ」と語った逸話は、彼の革新的な思想を象徴しています。 彼の作品は、日本画の表現方法が持つ可能性を大きく広げたと評価されています。 現在、横浜美術館で開催されている「没後110年 日本画の革命児 今村紫紅」展は、1984年の山種美術館(やまたねびじゅつかん)での回顧展以来42年ぶりとなる大規模なもので、公立美術館では初の開催となります。 国指定重要文化財を含む約180点の作品が一堂に会するこの展覧会は、紫紅の美術史における重要な位置づけと、現代においても「夭折の天才」として高く評価され続けていることを示しています。