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醍醐花見

今村興宗

没後110年 日本画の革命児 今村紫紅(いまむらしこう)と題された本展において、その弟である今村紫紅(1880-1916)に先立つ明治時代から大正時代初期に活躍した、兄の今村興宗(いまむらこうそう/1873-1918)による作品「醍醐花見(だいごのはなみ)」が紹介されます。この作品は、戦国時代の天下人、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が催した華やかな花見の宴を描いたものです。

背景・経緯・意図

今村興宗は、1873年に神奈川県横浜市に生まれ、日本画家である今村紫紅の兄にあたります。彼は、はじめ菊池容斎(きくちようさい)の門人である中島亨斎(なかじまきょうさい)に師事し、容斎派の日本画を学びました。亨斎の没後は、弟の紫紅も師事した松本楓湖(まつもとふうこ)の安雅堂画塾(あんがどうがじゅく)に入門し、容斎派の画風をさらに深め、特に人物画において優れた才能を示しました。 作品の題材である「醍醐の花見」は、慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が京都の醍醐寺(だいごじ)で開催した盛大な花見の宴を指します。秀吉の最晩年に行われたこの宴は、畿内(きない)から700本もの桜を醍醐寺に移植させ、堂舎や庭園を造営するなど、まさに一代の華麗な催しでした。約1300名もの女性たち、親族、諸大名の妻などが招かれ、日本一と称されるほどの豪華さであったと伝えられています。興宗は、このような歴史的かつ象徴的な出来事を題材とすることで、時代の盛衰や文化的な豊かさを表現しようとしたものと推測されます。

技法や素材

「醍醐花見」は、日本画の伝統的な様式で描かれた作品と考えられます。絹本に膠彩(にかづかい)を用いた彩色画と推測され、興宗が得意とした人物画の技量が存分に発揮されていると見られます。具体的には、右幅には愛息の豊臣秀頼(とよとみひでより)を抱きながら橋の下を眺める秀吉の姿が、左幅には桜を散らしてしまう鳥を追い払うために、桜の木々に赤色の紐で鈴を結び付けた「護花鈴(ごかれい)」の情景が描かれています。容斎派の画風を受け継いだ興宗は、精緻な筆致で人物の表情や衣装、風景の細部に至るまで丁寧に描写し、歴史的場面の臨場感を高める工夫を凝らしたと推測されます。

意味

作品の主題である「醍醐の花見」は、豊臣秀吉の天下統一の絶頂期における、最後の華やかな舞台として歴史に刻まれています。この宴は、秀吉が自身の権力と美意識の全てを注ぎ込んだ集大成であると同時に、その5ヶ月後に病没したことから、無常観(むじょうかん)や人生の儚(はかな)さをも内包する出来事として語り継がれてきました。 画面左幅に描かれた「護花鈴(ごかれい)」は、中国唐代の故事に由来し、日本では秀吉がこの醍醐の花見で取り入れたと伝えられる風流(ふうりゅう)です。花を慈しみ、その美を護ろうとする雅(みやび)な心を示す一方で、やがて来る散りゆく運命に対する一抹の寂しさや、時の流れに対する抵抗をも象徴していると考えられます。今村興宗は、この伝統的な画題を通して、権力と美、そして儚さという、普遍的なテーマを表現しようとしたと解釈できます。

評価や影響

今村興宗は、明治から大正初期の日本画壇において、人物画に秀でた画家として評価されていました。彼は、文展(ぶんてん)や内国勧業博覧会(ないこくかんぎょうはくらんかい)などで入選を果たし、その確かな画力と歴史画における表現力が高く評価されました。弟の今村紫紅が「日本画の革命児」として大胆な革新を追求したのに対し、興宗は菊池容斎から松本楓湖へと続く伝統的な容斎派の画風を継承し、堅実かつ品格のある表現を追求しました。 彼の作品は、当時の日本画が西洋画の影響を受けつつも、日本独自の伝統を再構築しようとした時代精神の中で、歴史画や人物画の分野で重要な位置を占めていたと考えられます。興宗の作品は、弟・紫紅のような革新的な評価とは異なるものの、古典的な題材を深い理解と高い技術で描き出すことで、当時の日本画の多様性と奥深さに貢献したと言えるでしょう。