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江戸名所築地浪除乃夜景

河鍋暁斎

ゴールドマン コレクション「河鍋暁斎(かわなべ きょうさい)の世界」にて展示されている河鍋暁斎の作品「江戸名所築地浪除(なみよけ)乃夜景」は、元治元年(1864年)2月に制作された大判錦絵(おおばん にしきえ)三枚続(さんまいつづき)の浮世絵です。幕末の江戸築地(つきじ)の夜の情景を描いた本作品は、当時の港町の賑わいと、夜という時間帯が醸し出す独特の雰囲気を伝えています。

背景・経緯・意図

本作品が制作された元治元年(1864年)は、幕末の激動期にあたります。開国を迫られ、国内では尊王攘夷運動が盛んになるなど、社会全体が大きな変化に直面していました。築地(つきじ)は江戸時代に埋め立てによって開かれた土地であり、明暦の大火後に西本願寺(にしほんがんじ)の代替地として造成されました。その後、海軍の拠点や外国人居留地(きょりゅうち)が設けられるなど、幕末から明治にかけて近代化の波が押し寄せた場所でもあります。 河鍋暁斎(かわなべ きょうさい)は、この激動の時代に活躍した絵師であり、浮世絵師の歌川国芳(うたがわ くによし)に学んだ後、狩野派(かのうは)の技術も習得するという異色の経歴を持っています。 伝統的な画法から戯画(ぎが)や風刺画(ふうしが)まで、幅広い画題と様式を操る「画鬼(がき)」と称されるほどの技量を持っていました。 「江戸名所築地浪除乃夜景」は、このような時代背景の中で、変わりゆく江戸の都市景観、特に国際的な交流の萌芽も見られた築地の夜の風景を捉えようとした作品と考えられます。この時期の暁斎は、万延元年(1860年)頃から本格的に錦絵を手掛け始めており、経済的な理由もあったと推測されますが、国芳(くによし)のもとで培った素養が浮世絵版画の制作に生かされました。 賑わう港の様子や、人々が行き交う夜の情景を描くことで、当時の庶民の日常や、都市の持つ活気を表現しようとした意図が込められていると推察されます。

技法や素材

本作品は「大判錦絵三枚続(おおばん にしきえ さんまいつづき)」という形式で制作されています。錦絵(にしきえ)とは、多色摺(たしょくずり)の木版画のことで、江戸時代に飛躍的に発展しました。 大判(おおばん)は、浮世絵版画における標準的な判型の一つであり、三枚続(さんまいつづき)は、三枚の版画を横に並べて一つの絵として完成させる手法です。 これにより、横長の広大な画面に、より詳細で壮大な情景を描き出すことが可能となります。 木版画の制作工程は、まず絵師が描いた下絵を彫師が版木(はんぎ)に彫り、その後、摺師(すりし)が複数の色版を用いて一枚ずつ丁寧に色を摺り重ねていくというものです。 夜景を描くにあたっては、闇の表現に濃い藍(あい)や墨(すみ)が用いられ、そこに灯りの表現として鮮やかな黄色や赤などが効果的に配されたと考えられます。暁斎は、狩野派(かのうは)で培った確かなデッサン力と、浮世絵で培った大胆な構図や色彩感覚を併せ持っていたため、この作品においても、夜の光と影の対比、あるいは遠近感の表現にその卓越した技量が見て取れると推測されます。

意味

「江戸名所築地浪除乃夜景」における築地(つきじ)は、単なる地名に留まらない歴史的・象徴的な意味を内包しています。築地は、江戸初期の埋め立てによって生まれた土地であり、地名自体が「築かれた土地」を意味します。 また、「浪除(なみよけ)」は、この地の埋め立て工事が難航した際に波を鎮めるために建立された波除稲荷(なみよけいなり)神社に由来すると考えられ、海上交通の安全や厄除けの願いが込められた場所として知られています。 この作品で描かれる夜景は、日中の賑わいとは異なる幻想的な雰囲気を醸し出しつつ、当時の都市の活力を象徴していると解釈できます。画面に描かれる様々な船や灯り、そして行き交う人々は、開港とそれに伴う社会の変化、そして新しい文化が流入しつつあった幕末の江戸の姿を映し出していると推測されます。また、夜の闇が広がる中に浮かび上がる光は、激動の時代にあってなお、人々の生活や文化が脈々と営まれていること、あるいは未来への希望や不安といった当時の人々の心象風景を象徴している可能性も考えられます。

評価や影響

河鍋暁斎(かわなべ きょうさい)の作品は、生前から高い評価を受けており、特にその卓越した画力と幅広い表現力は国内外で注目されていました。 「江戸名所築地浪除乃夜景」のような名所絵(めいしょえ)は、当時の人々にとって、都市の風景や文化を楽しむための重要な情報源であり、人気を博したと考えられます。暁斎は、従来の浮世絵の枠にとどまらず、狩野派(かのうは)で培った正統な技術と、国芳(くによし)に学んだ自由な発想を融合させた独自の画風を確立しました。 彼の作品は、幕末から明治にかけての社会の変遷を活写するとともに、風刺やユーモアを交えた視点で人々の心を捉えました。 明治時代に入ってからは、欧米でも早くから高い評価を受け、ジョサイア・コンドルなどの外国人にも影響を与え、弟子を多く育てました。 近年では、海外のオークションでの落札価格が上昇傾向にあるなど、日本国内においても再評価の機運が高まっています。 本作品もまた、河鍋暁斎の多岐にわたる画業の一側面を示すものとして、幕末の都市文化や浮世絵史において重要な位置を占めていると言えるでしょう。