河鍋暁斎
「ゴールドマン コレクション 河鍋暁斎の世界」展には、幕末から明治にかけて活躍した絵師、河鍋暁斎(かわなべ きょうさい)が制作した「白衣観音図」が展示されています。この作品は、多くの衆生(しゅじょう)を救う観音菩薩(かんのんぼさつ)の一形態である白衣観音の清らかな姿を描き出したもので、彼の多岐にわたる画業の一端を示すものです。
河鍋暁斎は、激動の幕末から明治時代という転換期を生き抜いた絵師です。幼少期に浮世絵師の歌川国芳に師事した後、狩野派の奥義を習得するなど、伝統的な諸流派の技法を幅広く学びました。さらに、琳派や円山四条派、そして西洋画の要素まで貪欲に取り入れ、自らの画風を確立していきました。その画業は、世俗的な諷刺画や戯画から、花鳥画、山水画、そして仏画に至るまで非常に多岐にわたり、「画鬼(がき)」と称されるほどの卓越した画力と探究心を持っていました。
本作品が制作された明治4年から22年(1871年から1889年)にかけての時期は、文明開化の波が押し寄せる一方で、人々の信仰心も根強く残っていた時代です。暁斎自身も仏教への信仰が厚く、観音像を日課として描いていたという逸話も伝えられています。この「白衣観音図」は、画家自身の信仰心の表れである可能性や、当時の仏画への需要に応じたものと推測されます。また、彼の作品が国内外で高い評価を得ていた時期であり、多忙な中にあっても、観音という清らかな主題に真摯に向き合った姿勢は、暁斎の画業の奥深さを示すものと考えられます。
本作品は一幅の掛軸として制作されたとされ、日本の伝統的な絵画技法が用いられています。河鍋暁斎は、狩野派で培った確かな筆墨(ひつぼく)の技術を基盤とし、墨の濃淡やかすれ、そして流麗かつ力強い線描を駆使することで知られています。特に白衣観音(びゃくえかんのん)を描くにあたっては、その「白」を表現するために、単に地の色を用いるだけでなく、墨の繊細な階調やごく薄い顔料を重ねることで、衣の透明感や軽やかさが追求されたと推測されます。胡粉(ごふん)などの白い顔料を効果的に使用し、観音の清浄な印象を高める工夫が凝らされた可能性も考えられます。彼の筆致には勢いと躍動感があり、対象の写実性と、それを超えた精神性を両立させる独自の表現が特徴です。
白衣観音は、観音菩薩の三十三観音(さんじゅうさんかんのん)の一尊であり、白い衣をまとった姿で表現されます。その白い衣は、清らかな精神と、あらゆる衆生の罪や苦しみを洗い流す慈悲の心を象徴しています。一般的には、女性的な姿で描かれることが多く、蓮華(れんげ)や浄瓶(じょうびょう)を持ち、水辺や岩の上に坐す図像が中国の唐代に考案され、日本に伝わったとされています。密教においては、白い色が悟りへの清らかな願望である菩提心(ぼだいしん)を意味するともされ、観音菩薩の根源的な慈悲を表します。白衣観音は、息災除病(そくさいじょびょう)や子授け、安産などのご利益(ごりやく)があるとされ、人々の厚い信仰を集めてきました。河鍋暁斎の「白衣観音図」も、こうした伝統的な観音の持つ意味を踏まえつつ、激動の時代にあって人々の心の安寧を願う画家の精神性が込められていたと考えられます。
河鍋暁斎は、その卓越した画力と多才さにより、生前から日本国内だけでなく海外でも高く評価されていました。彼は伝統的な狩野派の確かな技法を土台としながらも、浮世絵の奔放さや諷刺性、さらには西洋画の写実性をも取り入れ、既存のジャンルに囚われない独自の表現世界を確立しました。本作品のような仏画は、彼の多様な画業の中の一つであり、戯画や風刺画で知られる彼が、こうした厳かで伝統的な主題においても、その力強い筆致と深い精神性を遺憾なく発揮していたことを示しています。
明治という時代に、伝統的な日本絵画の技法を守りつつも、新たな表現を模索した暁斎の姿勢は、後の日本画壇に大きな影響を与えました。また、彼は積極的に外国人とも交流し、イギリス人建築家のジョサイア・コンドルを弟子に迎えるなど、国際的な視野を持った先駆者としても知られています。その作品は、現代においても国内外で再評価が進められており、美術史におけるその位置づけは非常に重要であると考えられています。