河鍋暁斎
ゴールドマン コレクション「河鍋暁斎の世界」展に展示されている河鍋暁斎(かわなべきょうさい)の「鍾馗(しょうき)図」は、明治15年(1882年)に制作された一幅の作品です。この絵は、疫病を退散させ、厄除けの神として崇められる鍾馗の姿を、暁斎ならではの力強い筆致で描いたものです。
河鍋暁斎は、幕末から明治にかけて活躍した絵師であり、浮世絵師としての修行に加え、狩野派の絵画技術も修得したことで知られています。明治時代に入り、社会が大きく変革する中で、暁斎は伝統的な画題を継承しつつも、自身の観察眼と批評精神を反映させた作品を数多く生み出しました。この「鍾馗図」が制作された明治15年という時期は、近代化が進む一方で、社会には依然として疫病や災厄への不安が存在していました。鍾馗は古くから魔除け、疫病退散の神として信仰されており、その姿を描くことは、そうした時代背景における人々の願いや、作者自身の社会に対する眼差しを反映したものであると考えられます。暁斎は、鍾馗という伝統的なモチーフに、単なる威厳だけでなく、どこか人間味あふれる表情や躍動感を与え、当時の人々の共感を呼ぶような表現を追求したと推測されます。
本作品は、伝統的な日本画の技法を用いて制作されており、一幅の掛軸として仕立てられています。主な素材は紙または絹に、墨と顔料が用いられていると考えられます。暁斎は、その卓越した筆遣いで知られており、特に墨の濃淡やかすれ、勢いを巧みに操ることで、対象の質感や動き、そして内面までも表現しました。鍾馗の力強い体躯やひるがえる衣、そして鋭い眼光は、速く力強い線描と、的確な墨の濃淡によって描き出されています。特に、その表情やひげの表現には、狩野派で培った確かな描写力と、浮世絵で養われた写実的な感覚が融合しており、鍾馗という存在に生命力を与えています。
鍾馗は中国の民間伝承に由来する神で、日本では平安時代以降、主に厄除けや疫病退散の守り神として信仰されてきました。端午の節句には、子どもの健やかな成長を願って鍾馗の絵や人形が飾られる風習もあります。鍾馗は通常、立派なひげを蓄え、冠を被り、鬼を睨みつけるような威厳ある姿で描かれることが多く、その手には剣を持っているのが一般的です。暁斎の「鍾馗図」も、この伝統的な図像を踏襲しつつ、その表現には作者独自の解釈が加えられています。本作品における鍾馗のモチーフは、当時の世相を反映し、人々の疫病や災厄に対する不安を払拭し、安寧を願う普遍的な意味合いが込められていると考えられます。また、伝統的な題材に、時にユーモラスさや人間性を加味する暁斎の作風は、この鍾馗図にも通底しており、単なる威厳だけではない、親しみやすさも兼ね備えた守護神としての意味合いも持ち合わせていると言えるでしょう。
河鍋暁斎の「鍾馗図」は、彼の数多くの作品の中でも、その力強い筆致と題材選択において、暁斎の多様な表現力を示す一例として評価されています。暁斎は、幕末から明治にかけての激動の時代において、狩野派の正統な絵画技術と浮世絵の諷刺性や大衆性を融合させ、独自の画風を確立しました。彼の作品は、当時の日本画壇において異彩を放ち、国内外で高い評価を得ました。特に、伝統的な題材に自身の人間観察に基づくユーモアや写実性を加味する作風は、後の日本画の表現に少なからぬ影響を与えたとされています。この「鍾馗図」も、疫病退散という伝統的なテーマを、暁斎ならではの生気あふれる筆致で表現したことで、単なる様式化された図像に終わらず、時代を超えて鑑賞者に語りかける普遍的な力を有していると評価できます。現代においても、暁斎はその幅広い画業と、時代に流されない独自の表現力によって、日本美術史において重要な位置を占める絵師として再評価され続けています。