河鍋暁斎
「ゴールドマン コレクション 河鍋暁斎の世界」展に出品されている河鍋暁斎(かわなべきょうさい)の作品「鯰(なまず)の船に乗る猫」は、明治零年代中頃(1870年代前半)に制作された一葉(いちよう)の肉筆画です。この作品は、巨大な鯰を船に見立て、その上で猫たちがくつろいだり、あるいは操ったりする様子を諧 謔(かいぎゃく)たっぷりに描いており、幕末から明治へと大きく変革する社会の様相を風刺的に捉えたものと考えられます。
作品が制作された明治零年代中頃は、幕末の動乱が収束し、明治新政府による近代化政策が急速に進められていた激動の時代でした。河鍋暁斎自身もまた、明治3年(1870年)に席画会で描いた絵が政府の役人の目に触れ、投獄されるという「筆禍事件(ひっかじけん)」を経験しています。この事件の後、画号を「狂斎」から「暁斎(きょうさい)」へと改めたことからも、当時の社会に対する反骨精神や複雑な心情を抱いていたことがうかがえます。 本作は、まさにこの筆禍事件の直後に近い時期に描かれたものであり、旧体制が崩壊し、新しい価値観が混沌としながら形成されていく時代への、暁斎なりの批評的視点や庶民感覚が込められていると推測されます。歌川国芳(うたがわくによし)のもとで浮世絵を、その後狩野派(かのうは)で正統な日本画の技法を学んだ暁斎は、こうした多様な画風を基盤に、時代を鋭く捉えた戯画(ぎが)や風刺画を数多く制作しました。
本作品は、紙に描かれ、彩色が施された肉筆画であると推測されます。暁斎は、幼い頃から徹底した写生を重んじ、生き物の動きや表情を克明に捉える観察眼を持っていました。その写生力は「画鬼(がき)」と称されるほどで、対象の形態を正確に把握しつつ、それを自在に変形、擬人化して表現する能力に長けていました。 狩野派で培った確かな筆致と、浮世絵で得た自由な発想や構成力が融合しており、軽妙でありながらも生き生きとした躍動感が画面全体に満ちています。特に、鯰(なまず)や猫といった動物の描写においては、写実性と想像力とが見事に調和し、見る者に強い印象を与える暁斎ならではの工夫が凝らされています。
作品に描かれている「鯰」は、日本の民間信仰において地震を引き起こす存在である「地震鯰」として古くから知られており、特に安政2年(1855年)の安政江戸地震以降、「鯰絵(なまずえ)」として世直しや政治批判、社会風刺のモチーフとして盛んに描かれました。鯰は、時に災厄の象徴であると同時に、世直しをもたらす存在や、時の権力者に見立てられることもありました。 一方、「猫」は江戸時代後期、歌川国芳(うたがわくによし)をはじめとする浮世絵師たちによって盛んに擬人化されて描かれ、人間社会の出来事を風刺する役割を担っていました。本作品において、偉そうな髭をはやした鯰が明治政府高官に、そして猫が芸者に見立てられているという解釈も存在し、猫が鯰の上でくつろいだり、あるいはその髭を引っ張って操ろうとしたりする様子は、新しい時代における権力構造の変化や、社会の裏側で暗躍する人々、あるいは庶民が権力者をもてあそぶ様を暗示していると考えられます。この作品は、鯰という「世直し」の象徴が、猫によって御される、あるいは翻弄される構図を描くことで、明治維新後の社会における支配層と庶民の関係性、あるいは権力の移り変わりに対する複雑な感情を表現していると解釈できます。
河鍋暁斎は、幕末から明治へと移行する混沌とした時代において、伝統的な絵画技法を継承しつつ、浮世絵や戯画といった革新的な表現を融合させた稀有な絵師として、現代においても国内外で高く評価されています。特に、西洋画の写実性も取り入れながら、その卓越した画力とユーモア、そして社会を風刺する視点は、後の日本画壇や漫画文化にも大きな影響を与えたと考えられています。 「鯰の船に乗る猫」に見られるような、動物を擬人化し、当時の世相を鋭く批評する暁斎の作品群は、江戸時代の庶民文化と明治の近代化が交錯する時代の様相を鮮やかに映し出しています。美術史においては、旧来の様式に留まらず、時代に即した新たな表現を追求した「江戸最後の天才絵師」として、重要な位置づけがされています。イギリス人建築家ジョサイア・コンドルが暁斎に師事するなど、早くから海外の識者からも注目され、その作品は今日まで世界中のコレクターに愛され続けています。