ウジェーヌ・ブーダン / Eugène Boudin
開館50周年記念「ウジェーヌ・ブーダン展―瞬間の美学、光の探求」では、ウジェーヌ・ブーダンによる初期の油彩作品《草原の牛》(Vaches au pré)が展示されています。この作品は1850年以前に油彩で板に描かれたもので、後のブーダンの代表的な主題となる海岸風景や港の情景とは異なる、牧歌的な田園風景を描いています。
ウジェーヌ・ブーダン(Eugène Boudin)が《草原の牛》を制作した1850年以前の時期は、彼が美術の道を歩み始めたばかりの青年期にあたります。ル・アーヴルで文具商を営んでいたブーダンは、店の奥に画材を置き、地元の芸術家たちの作品を展示する中で芸術への関心を深めました。本格的に絵画の制作を始めたのは1845年頃とされており、その初期にはジャン=フランソワ・ミレーやシャルル・トロワイヨンといったバルビゾン派の画家たちから影響を受け、農民の生活や自然を主題とする作品に触れていたと考えられます。この頃のブーダンは、まだ戸外での直接的な写生という独自のスタイルを確立する以前であり、伝統的な絵画の主題にも試行的に取り組んでいたと推測されます。本作は、フランスの豊かな自然、特にノルマンディー地方の田園風景へのブーダンの初期の関心を示すものであり、後に「空の王者」と称される彼が、身近な自然の情景を丹念に観察し、捉えようとした初期の試みと位置づけられます。
《草原の牛》は油彩で板に描かれています。ブーダンは、キャンバスの代わりに木製の板を支持体として用いることが多くありました。板はキャンバスに比べて表面が滑らかで、絵具の吸収性が低いため、筆致(ひっち)が直接的に現れやすく、細部の表現に適しています。また、持ち運びやすさから、戸外での制作や習作にもしばしば用いられました。この作品においても、油絵具の豊かな色彩と質感が、素早く確かな筆致で牛や草原の自然な様子を捉えるために用いられていると考えられます。この時期の作品には、まだ後の大気表現に見られるような奔放さは少ないものの、堅実なデッサン力と、光の観察に基づく色彩感覚の萌芽(ほうが)を見出すことができます。
作品に描かれた「牛」は、西洋美術において古くから豊穣(ほうじょう)や繁栄、勤勉さの象徴として描かれてきました。また、「草原」は牧歌的(ぼくかてき)な風景の典型であり、人間と自然との調和、あるいは平穏で素朴な田園生活を想起させるモチーフです。ブーダンがこの主題を選んだことは、当時の美術界における伝統的な風景画の潮流に沿いつつも、彼自身の身近な環境への関心を示していると言えるでしょう。産業革命が進む時代にあって、このような田園風景は、失われゆく自然や伝統的な生活様式への郷愁(きょうしゅう)や、変わることのない自然の営みへの賛美といった意味合いを帯びていた可能性も考えられます。
ウジェーヌ・ブーダンの初期作品である《草原の牛》は、彼が「外光派」の先駆者として認められるようになる以前の、芸術家としての模索期に位置づけられます。この作品自体が発表当時に大きな評価を受けたという記録は少ないと考えられますが、ブーダンが後に印象派の画家たち、特にクロード・モネに与えた影響は計り知れません。モネはブーダンとの出会いを「眼を開かされた」と語り、戸外で描くことの重要性を学びました。ブーダンは生涯を通じて、空と海の移り変わりゆく光や大気の表現を追求し、その探求は後に印象派が光と色彩の瞬間的な効果を捉えることに繋がりました。したがって、《草原の牛》のような初期の風景画は、彼の後の画業における主題選択や技法開発の原点として、そして自然を直接的に観察し描写しようとするその後の美術史の流れを準備する上での重要な一歩として、現代において再評価されるべき作品と言えるでしょう。