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オペラ 「ユラーテ」の舞台背景のための下絵 Sketch for the stage sets for the opera "Jūratė"

Mikalojus Konstantinas Čiurlionis

2026年3月28日より国立西洋美術館で開催されている「チュルリョーニス展 内なる星図」では、リトアニアを代表する芸術家ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス(Mikalojus Konstantinas Čiurlionis)の独創的な世界が紹介されています。本展で展示される作品の一つが、1908年にテンペラ/紙で制作された「オペラ『ユラーテ』の舞台背景のための下絵」です。これは、画家であると同時に優れた作曲家でもあったチュルリョーニスの、絵画と音楽を融合させ、リトアニアの神話的世界観を表現しようとした試みを示す重要な作品といえます。

背景・経緯・意図

ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス(1875-1911)は、35歳という短い生涯の中で、絵画と音楽という二つの領域で類まれな才能を発揮しました。彼は約6年間の画業で300点以上、約200曲の楽曲を遺しており、その作品群は世紀末のアール・ヌーヴォーや象徴主義、ジャポニスムといった国際的な芸術動向に呼応しつつも、作曲家ならではの感性と、当時ロシア帝国(現リトアニア南部)の支配下にあった祖国リトアニア固有のアイデンティティに深く根差しています。 本作「オペラ『ユラーテ』の舞台背景のための下絵」は、リトアニアの有名な伝説「ユラーテとカスティティス」に基づくオペラの舞台デザインとして構想されました。この伝説は、バルト海の琥珀(こはく)の宮殿に住む海の女神ユラーテと、人間の漁師カスティティスの悲恋の物語です。雷神ペルクナス(Perkūnas)が、不死の女神が定命(さだめい)の人間と恋に落ちたことに激怒し、琥珀の宮殿を砕き、カスティティスを殺害し、ユラーテを海底に繋ぎ止めるという悲劇が描かれています。 チュルリョーニスは、リトアニアの民話や信仰を重要なインスピレーション源としており、この国民的な物語に舞台芸術として命を吹き込むことで、リトアニアの精神性や文化を表現しようとしたと推測されます。 彼の作品は人間の精神世界や宇宙の神秘を描くことが多く、この伝説の持つ神秘性や壮大さに強く惹かれたと考えられます。

技法や素材

本作品は1908年にテンペラ/紙という素材と技法で制作されました。 テンペラ画は、顔料を卵黄などの結合剤で練り合わせて描く技法で、油彩画が出現する以前の中世の絵画において広く用いられました。 一度乾燥すると何年経っても色が変わらないという特徴を持ち、作品の鮮やかさが長期間保たれることで知られています。 しかし、その描き方には手順があり、時間と手間がかかるため、現代では継承する者が少ない技法でもあります。 チュルリョーニスは、このテンペラ技法を紙や厚紙の上に多用しました。 彼の作品にみられる繊細な色彩や幻想的な光の表現は、テンペラ画特有の透明感や色の奥行きによって生み出されていると考えられます。特に舞台背景の下絵として、光の表現や場面の雰囲気を効果的に伝えるために、この技法が選ばれた可能性も指摘できます。

意味

オペラ「ユラーテ」の物語は、単なる悲恋物語に留まらず、リトアニアの自然、特にバルト海と琥珀に対する深い文化的意味合いを含んでいます。海に打ち上げられる琥珀の破片は、ユラーテがカスティティスの死を悲しんで流した涙、あるいは砕け散った宮殿の欠片だと伝えられており、リトアニアの人々にとって琥珀は、この伝説と分かちがたく結びついています。 チュルリョーニスがこの伝説を下絵として描いたことは、単に物語を視覚化するだけでなく、リトアニアの国民的アイデンティティや自然との精神的なつながりを表現しようとする意図があったと解釈されます。彼の絵画はしばしば音楽的な構造や宇宙的なモチーフを取り入れ、視覚と聴覚、時間と空間を超越した精神的な世界観を提示してきました。 この下絵においても、伝説の持つ幻想性や悲劇性を、チュルリョーニスならではの宇宙的、象徴的な表現で描こうとしたものと考えられます。

評価や影響

チュルリョーニスは生前、ロシアの画壇で注目され、その独自の幻想的な画風はワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky)にも影響を与えたとされています。 しかし、リトアニアがソ連(当時)の支配下にあったため、欧米の研究者や鑑賞者が彼の作品に触れる機会が限られ、国際的な評価は遅れました。 2000年代以降、パリのオルセー美術館をはじめヨーロッパ各地で展覧会が開催されるなど、国際的に再評価の機運が高まっています。 彼は象徴主義と抽象絵画をつなぐ存在として、また抽象絵画以前に「構造」を絵画に取り入れた先駆者として、近代美術史におけるその独自の位置づけが評価されています。 リトアニアにおいては国民的な芸術家として深く尊敬されており、その作品は現代のリトアニア文化に精神的に大きな影響を与え続けています。 今回の「チュルリョーニス展 内なる星図」は、日本では34年ぶりの大規模回顧展であり、彼の作品が持つ普遍的な魅力と、絵画と音楽を融合させた独創的な芸術性が改めて日本で紹介される貴重な機会となっています。