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水に映る月蝕

舟越桂

「NHK日曜美術館50年展」にて展示された、舟越桂(ふなこし かつら)の彫刻作品《水に映る月蝕(みずにうつるげっしょく)》は、楠(くすのき)に彩色が施され、大理石の台座に据えられた半身像です。2003年に制作されたこの作品は、作家の代表的なスタイルである、静謐(せいひつ)でありながらも内省的な人物像の系譜に連なるものです。

背景・経緯・意図

舟越桂は、彫刻家である父・舟越保武(ふなこし やすたけ)の影響を受け、幼少の頃より彫刻家を志しました。東京芸術大学大学院を修了後、1980年代初頭から等身大の木彫彩色(もくちょうさいしき)による人物像を制作し、注目を集めます。彼の作品は、一貫して「人間とは何か」という根源的な問いを追求しており、人間の姿、特に半身像にこだわり続けてきました。 《水に映る月蝕》が制作された2003年は、舟越が約20年ぶりに裸婦像を手がけた時期にあたります。この頃から、彼の作品には現実の人体にはありえない形態や異形性(いぎょうせい)がより自由に展開されるようになります。本作は、腹部が丸く膨らみ、左右が逆になった手が翼のように背中に打ち付けられているという、どこか不可思議な身体表現を伴っています。作家自身は、このような姿が「人間が祈っている」という行為に姿を与えた結果、生まれたのではないかと語っています。人間が現実から解き放たれ、祈りの中にいる姿を表現しようとした意図が推察されます。

技法や素材

本作品は、舟越の代名詞ともいえる楠(くすのき)に彩色(さいしき)を施し、大理石(だいりせき)の台座を用いた彫刻です。舟越は、大学院生の時にトラピスト修道院から聖母子像の制作を依頼されたことをきっかけに、楠を主要な素材として用いるようになりました。 楠は、日本でも特に温暖な地域に自生する常緑高木(じょうりょくこうぼく)で、大きく成長し、樹齢千年を超える巨木も存在します。木材としては加工しやすく、緻密な質感と温かみのある色合いが特徴であり、古くから仏像や彫刻材として利用されてきました。また、楠には独特の清涼感のある樟脳(しょうのう)の香りが含まれており、防虫効果やリラックス効果があることでも知られています。 舟越の木彫作品は、繊細に仕上げられた頭部と、ノミの痕(さっこん)を残した力強い胴部との調和が特徴的です。また、眼の部分には彩色した大理石をはめ込む手法が、初期から一貫して用いられています。大理石の眼は、どこか遠くを見据えているような澄んだ眼差しを生み出し、観る者に深い精神性を感じさせます。この作品においても、楠の温かみと大理石の冷たさが絶妙なコントラストを生み出し、作品の持つ雰囲気を一層引き立てています。

意味

作品名にある「月蝕(げっしょく)」は、古くから不吉の予兆や神々の怒り、あるいは天命の崩壊を象徴するとされてきました。一方で、占星術においては、変容や浄化、新しい始まり、過去からの縁の浮上といったスピリチュアルな意味合いも持ちます。月が地球の影に蝕(むしば)まれるこの現象は、「陰と陽」「内面と外面」「意識と無意識」といった対立するエネルギーの融合や、過去を手放し、新しい再生に向かうイニシエーション(通過儀礼)のタイミングとしても捉えられます。 「水に映る」という表現は、反射や自己認識、内省、そして幻想やはかなさを想起させます。水面に映る景色は、現実とは異なる美しさや幻想的な情景を生み出すことがあります。古くから水面は自己を見つめ直す場として、また反省やリフレクションという哲学的な意味を含んでいました。 これらの意味合いを重ねると、《水に映る月蝕》は、人間の内面的な葛藤や変容、あるいは意識と無意識の間の揺らぎを、神秘的な月蝕と、それが水面に映し出されるという幻想的な情景を通して表現していると考えられます。舟越の作品がしばしば人間存在の問いを追求するものであることから、本作は、自己の内奥に潜む「影」と向き合い、そこから新しい可能性や再生を見出そうとする人間の精神性を象徴していると解釈できるでしょう。

評価や影響

舟越桂は、1980年代初頭に具象彫刻(ぐしょうちょうこく)の新たな可能性を切り開き、現代日本を代表する彫刻家の一人として国内外で高く評価されてきました。1988年にはヴェネツィア・ビエンナーレ(イタリア)、1992年にはドクメンタIX(ドイツ)に参加するなど、国際的な美術展にも数多く出品し、その独特の存在感と奥行きのある表現は多くの人々の共感を呼んでいます。 彼の作品は、どこか遠くを見据えるような静謐(せいひつ)な眼差しと、繊細でありながらも強い精神性を宿した人物像が特徴であり、「人間とは何か」という根源的な問いを観る者に投げかけます。美術史における彼の位置づけは、伝統的な木彫という技法を用いながらも、現代的な感覚で人間の本質を探求した点にあります。 また、舟越の作品は、小説の装丁(そうてい)にも多く採用されており、特に天童荒太の小説『永遠の仔』のカバー装画はよく知られています。このように、美術の枠を超えて一般の人々にも広く親しまれ、文学作品の世界観を深める上でも大きな影響を与えてきました。彼の独特な人物像は、観る者自身の内面を映し出す鏡のようであり、後世の美術家にもインスピレーションを与え続けていると考えられます。