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湖上夕照

志村ふくみ

NHK日曜美術館50年展に展示された志村ふくみ氏の作品「湖上夕照(こじょうせきしょう)」は、1979年に制作された紬織(つむぎおり)のタペストリーです。絹糸(きぬいと)と植物染料(しょくぶつせんりょう)を用いて織り上げられ、滋賀県立美術館に所蔵されています。

背景・経緯・意図

志村ふくみは、日本の伝統的な染織(せんしょく)の技法を現代に継承し、独自の芸術表現を確立した染織家です。1979年頃は、彼女が人間国宝(にんげんこくほう)に認定される以前ではあるものの、すでに植物染料を用いた手織りの世界で高い評価を得ていた時期にあたります。この時代、日本の伝統工芸は生活様式の変化と共に岐路に立たされていましたが、志村は自然の恵みである草木(くさき)から色を抽出し、糸を染め、手で織るという一連のプロセスを、単なる技術としてではなく、生命の営みそのものとして捉えていました。作品名にある「湖上夕照」は、滋賀県琵琶湖(びわこ)周辺の風景に触発されたものと推測され、自然の光や色彩の移ろいを織物で表現しようとする志村の深い自然観が込められていると考えられます。

技法や素材

「湖上夕照」は、主に絹糸と植物染料が用いられ、紬織という技法で制作されています。絹糸は、その光沢としなやかさが特徴であり、志村の作品に深みと優美さをもたらしています。彼女が特に重んじた植物染料は、茜(あかね)、藍(あい)、苅安(かりやす)など、日本の風土で育まれた多様な植物から抽出されます。これらの染料は、化学染料では表現できない、奥深く繊細な色彩を生み出し、時間と共に色合いが変化する「色の呼吸」を織物に与えます。紬織は、太さの異なる糸や節のある糸を織り込むことで独特の風合いを持つ織物で、志村はこの手織りの素朴さと力強さを生かしながら、植物染料による複雑な色の重なりを表現しました。彼女は、染めと織りの工程において、糸と対話し、自然のリズムに身を委ねるように制作を進めることで、作品に生命を吹き込む工夫を凝らしています。

意味

「湖上夕照」という作品名は、湖面に映る夕焼けの情景を指しており、日本の伝統的な美意識である「もののあはれ」や「侘(わび)」「寂(さび)」に通じるテーマを表現していると考えられます。夕焼けの瞬間の光は、移ろいゆく時間の美しさ、そしてはかなさを象徴します。湖の静寂と空の色彩のコントラストは、自然界の雄大さと、その中に溶け込む人間の感情を想起させます。志村は、この作品を通して、自然との一体感、生命の循環、そして人間が自然から受け取る安らぎや感動といった普遍的なテーマを織物の色彩と質感で表現しようとしました。植物染料が持つ柔らかな色彩は、夕日が湖を染めるような温かさと奥行きを感じさせ、観る者に穏やかな瞑想(めいそう)の時間を提供します。

評価や影響

志村ふくみの作品は、日本の伝統的な染織技術と現代的な芸術表現を融合させたものとして、国内外で高い評価を受けています。1979年制作の「湖上夕照」が発表された当時、すでに彼女は伝統工芸の世界で注目を集めていましたが、この作品群は、植物染料による色彩の可能性を追求し、手仕事の価値を再認識させる重要な役割を果たしました。1990年には重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定され、その功績は美術史に確固たる位置を築いています。彼女の作品は、単なる工芸品の枠を超え、現代美術としての評価も確立されており、後世の染織家や美術家に対し、自然素材への回帰や、手仕事の精神性を見つめ直す大きな影響を与え続けています。特に、植物から色を得て織り上げるという一連の創作活動は、現代社会における持続可能性や、物質主義に抗(あらが)う精神性への問いかけとしても、その意義を深く認識されています。