石内都
NHK日曜美術館50年展にて展示される石内都(いしうちみやこ)の作品「ひろしま #9 donor : Ogawa, R.」は、2007年に制作された発色現象方式印画(はっしょくげんしょうほうしきいんが)です。この作品は、広島の原爆犠牲者の遺品を被写体とし、個人が遺(のこ)した品々に宿る記憶と時間を静かに問いかける、石内都を代表する「ひろしま」シリーズの一点です。
石内都は、1970年代に横須賀(よこすか)をテーマに自身の原風景を撮り始め、その後、母の身体や女性の身体を主題とした作品を通して、私的な記憶と社会的な記憶を結びつける写真表現を追求してきました。2000年代に入り、広島平和記念資料館からの依頼で被爆者(ひばくしゃ)の遺品を撮影する機会を得たことをきっかけに、「ひろしま」シリーズの制作を開始しました。彼女は、被爆者が生前身につけていた衣服や靴、カバンといった品々を、持ち主の名前や年齢、被爆時の状況と共に記録しています。このシリーズは、原爆という人類史上未曽有(みぞう)の出来事によって命を奪われた人々の、不在の身体とその生(せい)の証しを、遺品を通して可視化(かしか)しようとする作者の深い意図が込められています。作品名にある「donor : Ogawa, R.」は、その遺品の提供者である故・小川(おがわ)さんの存在を示しており、個人の尊厳(そんげん)と記憶に焦点を当てる石内都の姿勢を象徴しています。
「ひろしま #9 donor : Ogawa, R.」は、発色現象方式印画という、一般的にカラー写真のプリントに用いられる技法で制作されています。この技法は、写真フィルムや印画紙(いんがし)の感光層(かんこうそう)に含まれる色素が、現像処理(げんぞうしょり)の過程で化学反応を起こして発色することで、色彩豊かな画像を生み出します。石内都は、色彩を用いることで、遺品の持つ生々しさや悲劇性を強調するのではなく、むしろ遺品がまとった時間や光、風合いを繊細(せんさい)に捉え、静謐(せいひつ)な美しさとして提示しています。彼女の作品では、遺品を背景から浮かび上がらせるようなライティングや、被写体の質感(しつかん)や細部にまで迫るクローズアップが特徴的です。これにより、単なる記録写真に留まらず、遺品そのものが持つ時間や記憶の痕跡(こんせき)が、見る者に強く語りかけるような効果を生み出しています。
「ひろしま #9 donor : Ogawa, R.」における遺品は、単なる物質的な存在ではありません。それは、原爆によって突然に人生を断ち切られた個人の存在を証言(しょうげん)する、生きられた時間の痕跡です。衣服や小物といった身近な品々は、所有者の身体の形を記憶し、その人の個性や日常を静かに物語ります。作品のタイトルに「donor(提供者)」という言葉が明記されていることは、遺品が匿名の過去ではなく、特定の個人の生(せい)と死に直結していることを示し、見る者に対し、一人の人間が経験した悲劇と向き合うことを促します。これらの遺品は、不在の身体を通して、生命の尊厳(そんげん)と戦争の悲劇を普遍的(ふへんてき)な問いとして提示すると同時に、原爆という出来事が過去のものではなく、現在にも脈々と続く記憶であることを示唆(しさ)しています。
石内都の「ひろしま」シリーズは、発表以来、国内外で高い評価を受けてきました。このシリーズは、個人的な記憶と集合的な歴史を結びつける写真表現の新たな地平(ちへい)を切り開いたと評されています。特に、被爆者という特定の立場を感傷的(かんしょうてき)に描くのではなく、遺品そのものに宿る生(せい)の痕跡(こんせき)と向き合うことで、見る者に深い共感と考察(こうさつ)を促す点が特筆されます。このシリーズは、2007年のヴェネツィア・ビエンナーレに出品され、国際的な注目を集めました。また、2014年には、優れた写真家に贈られるハッセルブラッド国際写真賞を受賞するきっかけの一つにもなり、石内都の国際的な評価を確固たるものにしました。彼女の作品は、記憶、ジェンダー、身体といったテーマを扱いながら、歴史と個人の関係性を問い直し、現代写真におけるドキュメンタリーの可能性を広げたとして、後世のアーティストにも大きな影響を与え続けています。