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ひろしま #5

石内都

「NHK日曜美術館50年展」において紹介される石内都(いしうちみやこ)の作品「ひろしま #5」は、2007年に制作された発色現象方式印画(はっしょくげんしょうほうしきいんが)であり、作家自身が所蔵しています。この作品は、広島の原爆犠牲者の遺品を被写体とした「ひろしま」シリーズの一つであり、失われた命の記憶と、遺(のこ)された品々の持つ存在感を静かに問いかけます。

背景・経緯・意図

写真家・石内都は、1970年代後半から、自身の生まれ育った横須賀をテーマにした「絶唱、横須賀ストーリー」や「アパート」といったモノクロ作品で注目を集め、1979年には木村伊兵衛写真賞を受賞しました。その後も、身体に残る傷跡や亡き母の遺品を撮影するなど、目に見えない時間や記憶、身体と物質の関係性を探求するテーマを一貫して追求しています。 「ひろしま」シリーズは、2007年、彼女が自身の母の遺品を撮影した「Mother's」シリーズが評価されたことをきっかけに、ある編集者からの依頼で始まりました。当初、石内は「広島はもう撮り尽くされている」と感じ、被爆地の写真をモノクロームで想像していました。しかし、広島平和記念資料館(ひろしまへいわきねんしりょうかん)で被爆者の遺品と初めて対面した際、それらの衣服が持つ色や柄、そして何よりもその美しさに強く心を揺さぶられます。従来の広島を写した写真が、多くの場合、悲惨な状況や集団的な記憶を主題としていたのに対し、石内は遺品そのものが持つ「生きていた証(あかし)」としての存在感に着目しました。彼女は、これらの品々を単なる資料としてではなく、そこに宿る個人の物語や、失われた日常の温かさを写し撮ることを意図しました。遺品を美しいものとして捉えることで、被爆以前の、人々の当たり前の暮らしや、おしゃれを楽しんでいた日常を想像させることを目指しています。作品を通して、被爆地のイメージを固定化された悲劇から解放し、見る者自身がそれぞれの「ひろしま」を問い直すことを促していると言えるでしょう。

技法や素材

「ひろしま #5」は、2007年に制作された発色現象方式印画です。これは、一般的なカラー写真のプリント方法であり、色彩を鮮やかに表現できる特徴を持っています。石内は、このシリーズにおいて、モノクロームの表現で知られる自身の初期作品とは異なり、あえてカラー写真を用いることで、被爆によって変色し、あるいは焼け焦げながらも残る衣服の色や質感を克明に捉えています。多摩美術大学(たまびじゅつだいがく)で染織(せんしょく)を学んだ経験を持つ石内は、被写体である衣服の繊維一本一本、生地の織り目、染色の状態といった細部にまで鋭い観察眼を向け、それらを精緻(せいち)なクローズアップで撮影します。遺品は、ときにライトボックスの上に置かれ、衣服を通して背後の光が透けるように撮影されることで、そこに確かに存在したはずの身体の不在を感じさせるとともに、衣服そのものの繊細さや内包する時間の層を浮かび上がらせる工夫が凝らされています。自然光の下で撮影することで、遺品の持つ本来の質感や時間の経過による変化が、より忠実に表現されていると推測されます。

意味

「ひろしま」シリーズにおける遺品は、原爆によって命を奪われた人々の生きた痕跡(こんせき)であり、それぞれの物語を内包する象徴的なモチーフとして機能します。花柄のワンピースや水玉のブラウス、仕立ての良い背広といった日常着は、個人の個性や当時の流行、そして着用者が生きた日常を雄弁に物語ります。焼け焦げ、綻(ほころ)び、あるいは変色した衣服の細部は、原爆の恐ろしさ、その破壊力を無言のうちに伝えつつも、同時に、それがかつて身に纏(まと)われていたことのリアリティを強く訴えかけます。 石内はこれらの遺品を「資料」としてではなく、彼女が出会った「ピンクのブラウス」として語るように、個別の品々を通して、失われた一人ひとりの命に寄り添おうとします。これにより、見る者は単なる歴史的事実の断片としてではなく、生身の人間がそこにいたという強い実感を伴い、悲劇の個人的な側面に思いを馳(は)せることになります。遺品が持つ「美しさ」は、犠牲者の生前の輝きや尊厳を再認識させ、同時に、その美しさが一瞬にして奪われたことのむごたらしさを際立たせるという、二重の意味を提示しています。

評価や影響

石内都の「ひろしま」シリーズは、発表以来、国内外で高く評価され、広島の記憶を継承する新たな視点として大きな影響を与えています。2008年に写真集として刊行された後、シリーズ全体で第50回毎日芸術賞(まいにちげいじゅつしょう)を受賞しました。2005年のヴェネツィア・ビエンナーレ日本館代表作家に選出されるなど国際的な評価も高かった石内ですが、この「ひろしま」シリーズは、2014年に日本人として3人目のハッセルブラッド国際写真賞(はっせるぶらっどこくさいしゃしんしょう)を受賞する際の主要な評価対象の一つとなりました。 彼女の作品は、これまでの原爆に関する写真表現が陥りがちであった、被害の悲惨さのみを強調する視点とは一線を画し、遺品が持つ生命力や美しさを通して、過去と現在をつなぐ普遍的な問いを提示しました。これにより、特に被爆の直接的な記憶が薄れゆく現代において、次世代が広島の歴史と向き合うための新たな手がかりを提供したと言えるでしょう。ニューヨーク近代美術館(きんだいびじゅつかん)など、世界の主要な美術館に作品が収蔵されており、その影響は美術史におけるドキュメンタリー写真の新たな地平を切り開いたと位置づけられています。また、本シリーズを巡るドキュメンタリー映画も制作されており、写真という枠を超えて、より広範な人々に広島の記憶を伝える役割も果たしています。