靉光
「NHK日曜美術館50年展」に出品される靉光(あいみつ)の「梢(こずえ)のある自画像」は、日本の洋画史において独自の道を歩んだ画家の、激動の時代における内面と向き合った作品です。1944年に油彩、カンヴァスで制作され、東京藝術大学が所蔵しています。画家の顔は眼鏡の奥でぼかされ、遠くを見つめるようでありながらも、その視線は鑑賞者には直接向けられていません。背景には冬枯れの梢が鋭く描かれ、戦時下の緊迫した状況と画家の精神的な葛藤を暗示しているかのようです。
靉光(本名:石村日郎(いしむら にちろう))は、広島県出身の洋画家で、昭和の戦前・戦中期に活動しました。1924年(大正13年)に上京し、「池袋モンパルナス」と称された芸術家たちの集う地で自らの画風を模索しました。彼の作品はシュルレアリスム(超現実主義)の影響を受けつつも、その一言では片付けられない独自性と謎に満ちた幻想的な世界を展開し、特に代表作とされる《眼のある風景》(1938年)などで知られています。 「梢のある自画像」が制作された1944年(昭和19年)は、第二次世界大戦が激化し、日本が戦況の厳しさを増していた時期にあたります。油絵具などの画材も不足し、芸術活動自体が困難を極めていました。 靉光自身も同年5月に召集を受け、中国へ入隊することとなります。この作品は、彼が応召する直前に描いた3点の自画像のうちの一つであり、当時の新人画会展に出品するよう友人に託されたものです。 靉光は、当局から戦争画の制作を迫られながらも、「わしにゃあ、戦争画は(よう)描けん」と語ったと伝えられており、戦争に協力する絵を描くことを拒否しました。 この自画像には、戦争によって画業が中断され、自身の絵が反体制的とみなされる時代への画家の強い抵抗や無力感が混在した複雑な心情が込められていると推測されます。 また、この作品には、生きて再び絵を描くという画家の強い意志、あるいは、目を開いて自らの描きたいものを自由に描くことのできない時代にあって、目を閉じざるを得なかった内省的な状況を表現しようとする意図が込められているとも考えられます。
「梢のある自画像」は油彩でカンヴァスに描かれており、画面左下には靉光のサインが確認できます。 靉光の絵画の特徴は、過剰なまでに絵具を厚く塗り重ね、時には削り取ることで生まれる、驚くべき密度の高さにあります。これにより、独特の重厚なマチエール(絵肌)が形成されています。 また、彼は薄めに溶いた絵具を透明に何層も重ねていく、古典的なグレーズ(透明な絵具層)技法を用いていたとも指摘されており、その卓越した油彩技法が彼の作品に高い完成度をもたらしました。 戦時下で油絵具が不足する中、「ドロでだって絵は描ける」と語ったとされる逸話は、資材の制約を超えて制作に臨む画家の執念ともいえる姿勢を物語っています。
この作品において、眼鏡をかけた画家の瞳がぼやけて描かれ、あるいは塗りつぶされている点は非常に特徴的です。 NHKの番組では、この目が「外を見る目ではなく、内面を見つめている」と解釈されたこともありますが、別の解釈としては、戦禍の時代において、画家が目を開いて自らの描きたいものを自由に描くことができない状況を象徴しているとも考えられます。 眼鏡をかけて遠くを見ようとしているにもかかわらず、目をぼかすという矛盾した表現には、時代に対する抵抗と無力感が混在した、画家の複雑な心情が示されていると推測されます。 後景に描かれた鋭角的な黒い梢は、冬の落葉樹のように行き暮れている印象を与え、あるいは怒りや不安の感情を喚起するとも評されています。 これは戦時下の厳しい現実、あるいは画家の生命の危機を暗示している可能性があり、鋭い梢と画家の蒼白な肌の対比が、彼の自負と無念を表していると見ることもできます。 自画像というモチーフを通して、靉光は近代的な自意識から離れ、事実としての存在という普遍的なテーマに回帰しようとしたと考えられています。 生き抜くことの意味、そして存在することの尊さを改めて見つめ直す、画家の内面的な探求がこの作品に込められていると推測することも可能です。
靉光は、そのシュルレアリスム風や宋元画風など、特異な画風から当時の画壇の主流からは外れ、「異端の画家」とも呼ばれました。 戦時下では、軍部から戦争を賛美する「戦争画」の制作を求められましたが、これを拒否したことから「抵抗の画家」としての側面も持ち合わせています。 「梢のある自画像」は、応召直前に第5回美術文化協会展に出品されました。 靉光の作品は、彼の死後、戦後になってから次第に美術界で注目を集めるようになりました。現在では、彼の作品は日本の洋画史上においてきわめて独自性の強いものとして高く評価されており、特に、描く対象の本質を深く捉えようとするその作品群は、現代においてますます評価が高まっています。 靉光は、昭和の戦前・戦中期という激動の時代に、極めて個性的な作品を創造し、近代日本美術史に大きな足跡を残しました。 38歳という若さで中国の戦地で戦病死したため、その短い画業は途絶えましたが、彼の晩年に描かれた自画像群は、日本の油彩表現における一つの到達点を示したものと評価されています。 生前に多くの作品を破棄し、郷里広島に残した作品の多くが原爆で焼失したため、現存する作品は決して多くはありませんが、その作品が持つ強い精神性は、戦没画家の象徴的存在としても、後世に語り継がれています。