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肥後国海中の怪

作者不詳

NHK日曜美術館50年展にて紹介される「肥後国海中の怪(ひごのくに かいちゅうのけ)」は、作者不詳ながらも、江戸時代後期の弘化(こうか)3年(1846年)に製作された摺物(すりもの)として、京都大学附属図書館に所蔵されている貴重な作品です。この作品は、当時の人々の不安や信仰、そして情報伝達のあり方を現代に伝えるだけでなく、後世に「アマビエ」として再評価されることになります。

背景・経緯・意図

本作が制作された弘化3年(1846年)は、江戸時代末期にあたる幕末期であり、社会情勢の不安定さや自然災害の頻発、異国船の来航など、人々が漠然とした不安を抱える時代でした。このような背景の中、未来の吉凶や厄災を予言し、その回避策を教えるという「予言獣(よげんじゅう)」の存在が庶民の間で広く信じられていました。本作に描かれた「肥後国海中の怪」も、そうした予言獣の一つとして出現したと伝えられています。当時の瓦版(かわらばん)に掲載された記述によれば、肥後国(現在の熊本県)の海に毎夜光るものが現れ、役人が調べに行ったところ、この怪しいものが姿を現し、「私は海中に住むアマビエと申す者なり。当年より六ヶ年(ろくかねん)の間は諸国で豊作が続くが、同時に疫病が流行するから、私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ」と告げて海中へ帰っていったと記されています。このことから、作者不詳ながらも、人々の疫病に対する不安を鎮め、あるいは注意喚起を促す目的で制作されたものと推測されます。

技法や素材

「肥後国海中の怪」は「摺物」という技法で製作されています。摺物とは、江戸時代に俳諧(はいかい)や狂歌(きょうか)を嗜(たしな)む趣味人たちが、自作の句に絵を添えて私的に制作・交換した木版画の一種です。 一般に市場で販売された浮世絵版画とは異なり、贈答品としての性格が強かったため、採算を度外視して高品質な紙や精緻(せいち)な摺(す)りの技術が用いられる傾向にありました。 本作も木版を用いて彫られ、紙に摺られたものと考えられます。具体的な素材の詳細は不明ですが、当時の摺物では奉書紙(ほうしょし)や雁皮紙(がんぴし)といった高級和紙が使われることが多く、顔料(がんりょう)を使わずに版木(はんぎ)を紙に押し当てて模様を浮き立たせる空摺(からずり)や、雲母(うんも)粉を用いた雲母摺(きらずり)など、特殊な技法が凝らされることもありました。 本作においても、そのような丁寧な手仕事によって、詳細な描写と独特の質感が表現されたと推測されます。

意味

この作品の主要なモチーフである「肥後国海中の怪」は、現代において「アマビエ」として広く認知されている妖怪(ようかい)の原典とされています。アマビエは、長い髪、鳥のようなくちばし、鱗(うろこ)に覆われた体、そして三本の足を持つという特徴的な姿で描かれています。 その伝承によれば、豊作と疫病の流行を予言し、自身の姿を絵に写して人々に広めることで、疫病から逃れることができると告げたといいます。 「肥後国」とは現在の熊本県にあたる地域であり、海から現れた怪異(かいい)が、この地で目撃されたことが特筆されています。 この物語は、自然の力に対する畏敬(いけい)の念と、疫病という見えない脅威(きょうい)に直面した人々が、超自然的な存在に救いを求めるという、当時の民間信仰(みんかんしんこう)や精神性を強く反映しています。また、類似する予言獣にアマビコやアリエなどがあり、「アマビエ」という名称は「アマビコ」の誤記ではないかという説も存在します。

評価や影響

「肥後国海中の怪」が制作された当時、このような摺物や瓦版は、現代の新聞やSNSのように、情報伝達や世間の耳目を集める役割を担っていたと考えられます。 疫病の流行を予言し、その対策を伝える「アマビエ」の絵姿は、当時の人々にとって不安を和らげ、希望を与えるお守りのような存在として受け入れられたと推測されます。

そして、この「肥後国海中の怪」は、約140年後の2020年、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が世界的に流行した際に、「アマビエ」として予期せぬ再評価を受けることになります。京都大学附属図書館が所蔵するこの原典がSNSなどで紹介されると、その姿を描いたイラストや関連グッズが爆発的に拡散し、「疫病退散」のシンボルとして、多くの人々に希望と癒しをもたらしました。 これは、人々が未曾有の危機に直面した際、古くからの伝承や文化に拠(よ)り所を求めるという、普遍的な人間の心理が表れた事例といえるでしょう。美術史における位置づけとしては、江戸時代の民衆文化、木版画、そして民間信仰が交錯する稀有(けう)な資料として、その歴史的・文化的価値が再認識されています。特に「作者不詳」でありながらも、時代を超えてこれほどまでに社会に大きな影響を与えた作品は珍しく、その普遍的なメッセージが現代にも通じることを示しています。