歌川国芳
歌川(うたがわ)国芳(くによし)の描いた「流行逢都絵希代稀物(りゅうこうおおつえきだいのきぶつ)」は、江戸時代後期、嘉永(かえい)元年(1848)頃に制作された大判錦絵(おおばん にしきえ)三枚続の作品です。東京藝術大学が所蔵するこの作品は、江戸の庶民文化と国芳の類稀な風刺精神が凝縮されており、NHK日曜美術館50年展でも紹介されることになりました。
作品が制作された嘉永元年(1848)頃の江戸時代後期は、幕府による天保(てんぽう)の改革(かいかく)が一段落し、世の中には再び庶民文化が活気を取り戻しつつありました。しかし同時に、度重なる災害や物価高騰(ぶっかこうとう)など、民衆の生活は依然として厳しい状況にありました。このような時代背景において、国芳は時の為政者(いせいしゃ)や社会の矛盾を風刺した作品を数多く手掛けています。本作の「流行逢都絵(りゅうこうおおつえ)」という題名には、滋賀県(しがけん)大津(おおつ)の土産物(みやげもの)として親しまれた「大津絵(おおつえ)」の文字が用いられており、大津絵が持つ滑稽(こっけい)さや教訓的な性格、そして当時の流行を作品に取り入れようとする国芳の意図が推測されます。また、「希代稀物(きだいのきぶつ)」という言葉からは、奇抜で珍しいものを描くことで人々の関心を惹きつけようとする狙いも感じられます。
この作品は、多色摺(たしょくずり)りの浮世絵(うきよえ)である「錦絵(にしきえ)」の技法を用いて制作された大判(おおばん)三枚続(さんまいづづき)です。大判は現代のB4サイズに相当し、それを三枚横に繋げることで、広大な画面に複雑な構図と多数の登場人物を配置することが可能となりました。錦絵は、複数の版木(はんぎ)を用いて色を重ねて摺(す)り上げるため、非常に色彩豊かで精緻(せいち)な表現が特徴です。国芳は、彫師(ほりし)や摺師(すりし)との密な連携(れんけい)により、線の強弱や色彩の濃淡(のうたん)を巧みに操り、登場人物の表情や衣装、そして背景の細部に至るまで、卓越(たくえつ)した技術を駆使(くし)しています。特に、複雑な群衆(ぐんしゅう)の描写や、物語性を持たせるための画面構成には、国芳ならではの工夫が見られます。
「流行逢都絵希代稀物」の「逢都絵」は大津絵(おおつえ)と読み、江戸時代に滋賀県(しがけん)大津宿(おおつじゅく)で売られていた民画(みんが)のことで、独特の滑稽(こっけい)な筆致(ひっち)と仏教的(ぶっきょうてき)な教訓や世俗(せぞく)の風刺(ふうし)が込められていることで知られています。この作品には、大津絵の代表的なモチーフである鬼(おに)や藤娘(ふじむすめ)などが、当時の流行を取り入れた姿で数多く描かれています。例えば、鬼が当時の流行歌舞伎(かぶき)役者の扮装(ふんそう)をしていたり、市井(しせい)の人々が日常の風景の中にユーモラスに描かれていたりすることが挙げられます。これらのモチーフは単なる滑稽(こっけい)な描写に留まらず、当時の社会状況や人々の生活、流行に対する国芳なりの視点と批評(ひひょう)が込められていると解釈されます。伝統的な大津絵の題材を、江戸の風俗(ふうぞく)や流行と組み合わせることで、世相を映し出す鏡としての意味合いが強化されていると考えられます。
歌川国芳は、その自由奔放(じゆうほんぽう)な発想と卓越(たくえつ)した画力(がりょく)により、「奇想(きそう)の絵師(えし)」と称され、江戸時代後期を代表する浮世絵師(うきよえし)の一人として高く評価されています。彼の作品は、当時の庶民の間で絶大な人気を博しました。特に、社会や権力に対する風刺(ふうし)を込めた作品は、幕府による検閲(けんえつ)が厳しかった時代において、隠喩(いんゆ)や擬人化(ぎじんか)といった手法を巧みに用いることで、人々に共感と笑いを提供しました。本作「流行逢都絵希代稀物」も、そうした国芳の風刺画(ふうしが)としての側面を強く持ち、発表当時から多くの人々に話題を提供したと推測されます。現代においても、国芳の作品はそのユニークな発想と構成力、そして現代にも通じる風刺精神が再評価されており、美術史における浮世絵の多様性と奥深さを示す重要な作品として位置づけられています。彼の画風は、後の浮世絵師や現代のサブカルチャーにも多大な影響を与え続けています。