倉俣史朗
「NHK日曜美術館50年展」で紹介される倉俣史朗(くらまたしろう)の作品「ミス・ブランチ」は、1988年に発表されたアクリル製の椅子です。透明なアクリルの中に造花のバラが封じ込められ、アルマイト染色仕上げのアルミニウムパイプの脚を持つこの椅子は、武蔵野美術大学美術館・図書館に所蔵されています。倉俣史朗の代表作として知られ、その詩的な表現と独創的な素材使いが特徴です。
「ミス・ブランチ」は、デザイナー倉俣史朗が1988年に発表した傑作であり、彼のデザイン哲学を象徴する作品の一つです。制作のきっかけは、1987年に家具商品のデザイン見直しを進めていたコクヨの副社長が、建築家・安藤忠雄氏を介して倉俣氏と出会ったことだとされています。倉俣氏は一般的な事務椅子ではなく、働く人々が各々の椅子を選べるようなアイデアを提案し、バラ柄の生地を張った事務椅子と共に、同時期に構想していたアクリルに造花を封じ込めた椅子「ミス・ブランチ」を1988年の「KAGU展」に出展しました。コクヨはこの展覧会のスポンサーを務めました。
この椅子の名称は、倉俣が鑑賞したとされるテネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』、特にエリア・カザン監督の映画版に登場する主人公、ブランチ・デュボアに由来しています。 ブランチ・デュボアが身につけていた、あるいは衣服の模様だったとされる赤いバラのイメージからインスピレーションを得たとされています。 倉俣は、この椅子を通してヒロインの儚(はかな)さや可憐(かれん)さ、そして偽りの姿をまといながらも幸せを求める彼女の情熱的な一面を詩的に表現しようとしたと推測されます。
「ミス・ブランチ」には、アクリル、造花、アルマイト染色仕上げのアルミニウムパイプが用いられています。 特に注目すべきは、透明なアクリルの中にバラの造花を封じ込めるという独創的な技法です。 倉俣は当初、生花の使用も検討しましたが、高温の液体状アクリルを流し込むと花が焦げたり形が崩れたりするため、造花を用いることにしました。 当時「ホンコンフラワー」と呼ばれた安価な造花がアクリルと相性が良いとわかり、採用されたといいます。
この透明なアクリルによって、バラはまるで宙に浮いているかのように見え、時間を超えて永遠に閉じ込められたような印象を与えます。 脚部には紫に染色されたアルミニウムパイプが使用されており、アクリルの透明感と造花の色彩を引き立てています。 倉俣史朗は、アクリルやガラス、アルミといった工業素材を多用し、それまでの家具デザインにはなかった詩的な表現を探求したデザイナーとして知られています。 彼の作品は、重力からの解放や浮遊感をテーマとすることが多く、「ミス・ブランチ」もその思想を具現化した一脚と言えるでしょう。 製造にはほとんど手作業が用いられたため、生産数は世界で60脚程度と限られており、貴重な作品となっています。
「ミス・ブランチ」は、単なる機能的な椅子を超え、深い象徴的意味を内包しています。その名の由来となった映画『欲望という名の電車』の主人公ブランチ・デュボアは、過去の栄光と現実の厳しさの間で揺れ動き、偽りの自分を演じながらも愛と救済を求める悲劇的な女性です。透明なアクリルの中に封じ込められた造花のバラは、時間と空間の中に永遠に凍結されたかのような、彼女の儚くも美しい存在、そして満たされることのない欲望や夢を象徴していると解釈できます。
倉俣自身、「本物はもう要らない。ブランチは偽物だから偽物じゃなきゃだめなんだ」と語ったという証言もあり、造花が用いられた背景には、ヒロインの欺瞞(ぎまん)や偽りの美しさ、あるいはそれが持つある種の真実性を表現する意図があったと考えられます。 また、椅子に込められた「浮遊感」は、重力や現実から解放されたいという倉俣自身の願望を映し出しているとも言われ、見る者に夢のような世界を想起させます。 この作品は、家具が持つ機能を超え、人間とオブジェとの間に「会話」を生み出すという倉俣のデザイン哲学を具現化したものと言えるでしょう。
「ミス・ブランチ」は、1988年の発表以来、倉俣史朗の代表作の一つとして世界的に高い評価を受けています。 当時の日本での発表当初は、その斬新さから評価に困惑する声もあったとされますが、 翌1989年にはパリでの個展でも展示され、国際的な注目を集めました。 ニューヨーク近代美術館をはじめとする世界の主要な美術館にコレクションされており、美術史におけるその位置づけは揺るぎないものとなっています。
倉俣史朗は、1960年代半ばから1991年に急逝するまでの短い活動期間において、日本のデザイン界に「クラマタショック」という言葉が生まれるほどの衝撃を与えました。 彼の作品は、従来の機能主義的なデザインとは一線を画し、詩的で幻想的な世界観、そしてアクリルやガラス、アルミなどの工業素材を独創的に用いることで、アートとデザインの境界を横断する存在として認識されています。 「ミス・ブランチ」に見られる「重力からの解放」や「透明性」といったテーマは、後の多くのデザイナーや美術家に影響を与え続けています。 没後30年以上経った現在でも、倉俣史朗の仕事や考え方は、時代を超えた美しさと自由な精神に満ちた「人類の遺産」として高く評価され、展覧会が定期的に開催されるなど、その影響力は広がり続けています。