松本竣介
NHK日曜美術館50年展では、洋画家・松本竣介(まつもとしゅんすけ)が1943年に油彩(ゆさい)でカンヴァスに描いた「並木道(なみきみち)」を展示しています。この作品は現在、東京国立近代美術館に収蔵されています。
松本竣介は1912年に東京で生まれましたが、幼少期を岩手県花巻(はなまき)市や盛岡(もりおか)市で過ごしました。13歳の時に流行性脳脊髄膜炎(りゅうこうせい脳せきずい膜えん)を患い聴力を失いますが、この経験が彼を画家への道へと進ませるきっかけとなりました。上京後、太平洋洋画研究所で絵画を学び、二科展(にかてん)に入選するなど、早くからその才能を発揮します。
「並木道」が制作された1943年は、太平洋戦争が激化し、美術界においても「彩管報国(さいかんほうこく)」の名のもとに、戦争協力の意識が高まっていた時代でした。1941年には、軍部による美術への干渉に対し、松本竣介は美術雑誌『みづゑ』に「生きてゐる画家(いきているがが)」と題する文章を発表し、美術家の精神的な自立を訴えました。このため、彼は「抵抗の画家」と称されることもあります。
「並木道」は、松本竣介をはじめ、靉光(あいみつ)、麻生三郎(あそうさぶろう)ら8人の青年画家によって結成された新人画会(しんじんがかい)の第2回展に出品されました。この新人画会は、戦争に加担する「作戦記録画(さくせんきろくが)」の制作から距離を置き、画家としての自主的な制作態度を貫いたことで知られています。
作品に描かれた並木道は、都内の本郷通(ほんごうどおり)りが神田小川町(かんだおがわまち)から聖橋(ひじりばし)へ向かう上り坂の地点、ニコライ堂(どう)付近の風景であると推測されています。戦禍(せんか)が拡大し、自由な表現が制約される中で、日常的な都市風景を描くことは、時局に対する静かな抵抗、あるいは失われゆく日常の尊さを再確認しようとする画家の内面的な意思の表れであったと考えられます。
本作は油彩(ゆさい)とカンヴァスを用いて制作されています。松本竣介の画風は、冷たく澄んだ空気感と詩的な静けさをたたえた画面が特徴とされます。彼は、青や茶系の背景に黒と白の線で風景や人物を描き、具象と象徴が混在する独自の表現を確立しました。
「並木道」に見られる技法としては、やや極端な遠近法(えんきんほう)を用いた緊密(きんみつ)な構成が挙げられますが、決して完全に統一されたものではなく、どこか息をつけるような不整合さ(ふせいごうさ)が感じられます。抑制された色彩と簡潔な筆致(ひっち)によって、都市の風景が理知的かつ抒情(じょじょう)的に描かれており、画面全体に静謐(せいひつ)な雰囲気を醸(かも)し出しています。
「並木道」というモチーフは、一般に都市の景観の一部でありながら、その規則的な配置と奥行きは、人々の日常の営みや時の流れを象徴的に表現しうるものです。本作が制作された1943年という時代背景を鑑(かんが)みると、この作品は単なる風景描写に留まらない深い意味を帯びていると考えられます。
戦時下の社会において、華々しい戦果(せんか)を称揚する「戦争画」が求められる中で、松本竣介があえて市井(しせい)の並木道を描いたことは、何気ない日常の風景の中にこそ人間らしい営みの本質を見出そうとした彼の視線を示唆しています。画面を行く一人の男性の姿は、当時の社会情勢の中で個人の存在が持つ孤独感や内省的な感情を喚起させるとともに、失われつつあった平和な日常への郷愁(きょうしゅう)や、それに抗(あらが)う静かな意志を象徴しているとも解釈できます。画面全体に漂う「かげりのある緊張」は、時代の大きなうねりに対して誠実に対峙(たいじ)しようとした画家の内面を反映しているとされています。
松本竣介の「並木道」は、彼が結成に参加した新人画会(しんじんがかい)の活動を通じて発表されました。当時の美術界が戦争協力へと傾倒する中で、新人画会が自主的な制作活動を継続したことは、美術表現の自由を守ろうとする重要な動きとして位置づけられます。
戦後、美術評論家の土方定一(ひじかたていいち)らは、松本竣介をはじめとする新人画会の画家たちを「抵抗の画家」として高く評価しました。松本竣介は、1948年に36歳という若さで夭折(ようせつ)しましたが、その短い生涯の中で確立した独自のモダニズム的な画風と、都市風景や人物に注がれた理知的な視線は、後世の画家たちにも大きな影響を与えました。彼の作品は、現在も東京国立近代美術館や岩手県立美術館などに多数収蔵されており、その静かで抒情(じょじょう)的な表現は、時代を超えて多くの人々に魅力を与え続けています。松本竣介は、日本の近代美術史において、戦時下という困難な状況にあっても芸術家の独立性を貫き、都市と人間の内面を描き続けた稀有(けう)な存在として、高く評価されています。