速水御舟
NHK日曜美術館50年展にて展示される速水御舟(はやみぎょしゅう)の《洛北修学院村(らくほくしゅうがくいんむら)》は、大正7年(1918年)に制作された絹本著色(けんぽんちゃくしょく)の日本画です。京都の北方にある修学院村の静謐(せいひつ)な風景を描いた本作は、速水御舟の初期の傑作の一つとして、滋賀県立美術館に所蔵されています。
速水御舟は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家であり、その短い生涯において常に新たな表現を追求し、画風を変化させ続けました。大正7年(1918年)頃、御舟は京都の修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)近くにある林丘寺(りんきゅうじ)内の雲母庵(きららあん)に一時的に移り住んでいました。この時期は、師である今村紫紅(いまむらしこう)を亡くし、深い傷心を抱えつつも、芸術への新たな決意を固めて邁進(まいしん)した時期にあたります。彼はこの頃、自らを「群青(ぐんじょう)中毒にかかった」と表現するほど青色に傾倒しており、青を基調とした作品を多く手がけています。この《洛北修学院村》も、そうした背景の中で、修学院村という特定の場所の写生を通じて、自身の内面的な感情と向き合い、新たな日本画の可能性を探る意図をもって描かれたものと考えられます。修学院村は、かつて京都府愛宕郡(おたぎぐん)に存在した村で、比叡山(ひえいざん)の西麓から高野川(たかのりば)に挟まれた地域に広がり、豊かな自然と田園風景が特徴でした。
本作は、絹本著色という技法で描かれています。絹本とは、書画を制作する際に使う絹の布地のことで、絵を描くのに適した「絵絹(えぎぬ)」が用いられます。絵絹はハリがあり、紙とは異なる手触りが特徴で、裏側から彩色したり金・銀箔を押したりと、幅広い表現が可能です。著色とは、墨以外の色彩を用いた作品を指します。
速水御舟は、岩絵具(いわえのぐ)を塗る前に混ぜ合わせるという、当時の日本画では珍しい手法を取り入れたとされています。これにより、微妙なグラデーション(階調)や奥行きのある表現を可能にしました。また、本作では、青の陰影を巧みに用いることで、離れて見るとまるで立体画像のような深みと柔らかさが感じられます。手前の木々を真横から見たように描き、全体としては高い位置から俯瞰(ふかん)する視線で構成するなど、当時の西洋美術におけるキュビスム(立体派)の表現を意識したかのような空間構成の工夫も見られます。
作品名にある「洛北修学院村」は、京都の北方に位置する修学院の里を描いています。この地は、古くから修学院離宮が造営されるなど、自然に恵まれた景勝地として知られていました。御舟はこの村の風景を、夜明け前のような静けさに包まれた青い色調で描き出しています。画面全体を覆う深く柔らかな青は、単なる風景描写に留まらず、作者の内面的な感情や、対象の持つ本質を象徴的に表現しようとする御舟の姿勢を示唆していると考えられます。比叡山を含む遠景の山並みが、この地が修学院村であることを如実に示しています。この作品に見られる青の世界は、鑑賞者に幻想的な感覚を抱かせ、時に海の底の理想郷「ニライカナイ」を連想させるとも言われています。
《洛北修学院村》は、速水御舟が「群青中毒にかかった」と語った大正7年(1918年)に制作され、その年開催された第5回日本美術院展に出品されました。この作品は、日本画において「青」を作品の主役として全面的に展開した最初期の例の一つとして特筆されます。従来の日本画における岩絵具の使用法に新しい工夫を凝らし、繊細な色彩表現と立体感を生み出した点で、近代日本画の新たな方向性を示す初期の傑作と評価されています。
御舟は生涯を通じて画風を変化させ、「梯子(はしご)の頂(いただき)に上る勇気は尊い。さらにそこから降りてきて再び上り返す勇気を持つものはさらに尊い」という言葉を残したように、常に現状を打破し、革新を求める画家でした。彼のこの時期の青の表現は、後の日本画家、特に東山魁夷(ひがしやまかいい)の作品にも影響を与えた可能性が指摘されています。この作品は、御舟の探求心と独自の美意識が結実した一例であり、近代日本画史における彼の重要な位置づけを示すものとして、現在も高く評価されています。