熊谷守一
NHK日曜美術館50年展で紹介されている熊谷守一(くまがいもりかず)の油彩画「ヤキバノカエリ」(1956年、油彩/カンヴァス、岐阜県美術館蔵)は、画家の深い悲しみと独自の芸術表現が凝縮された代表作の一つです。この作品は、長女を亡くした後の火葬場からの帰路の情景を描いた自画像であり、熊谷守一の画業における重要な転換点を示す作品として知られています。
本作「ヤキバノカエリ」は、1956年に制作されましたが、その背景には、画家・熊谷守一が1947年に長女・萬(まん)を21歳で亡くしたという、深く悲痛な経験があります。熊谷は生涯で5人の子をもうけましたが、次男、三女、そして長女の萬を相次いで失うという苦難を経験しました。特に長女・萬は勤労動員による過労が原因で結核(けっかく)を患い、若くして命を落としました。この作品は、火葬(かそう)を終え、焼け野原となった戦後の風景を背に、熊谷自身と長男の黄(こう)、次女の榧(かや)が帰路につく姿を描いたものとされています。
作品の制作は長女の死という個人的な悲しみが発端となっていますが、単なる写実的な描写に留まらず、死生観(しせいかん)や生命の尊厳といった普遍的なテーマへと昇華させようとする画家の意図が込められていると推測されます。また、アンドレ・ドランの絵画『ル・ベックを流れるセーヌ川』から構図や色彩の影響を受けているという指摘もあります。この作品は、熊谷が若き日の写実的な作風から脱却し、晩年に確立する「モリカズ様式」へと至る過程において、極めて重要な転換点を示す作品であると考えられています。
「ヤキバノカエリ」は油彩(ゆさい)でカンヴァスに描かれています。熊谷守一は、この作品において、太く明瞭な輪郭線(りんかくせん)と、極限まで単純化されたフォルムを用いて人物や背景を描いています。色彩は抑えられた色調でまとめられ、侘(わび)しさを感じさせる表現が特徴です。この時期から、後の熊谷作品の代名詞ともなる、赤い輪郭線が作品に現れ始め、輪郭線で囲まれた内側は陰影のない単一色で塗られるという技法が用いられるようになりました。
彼の画風は、70歳を過ぎて「守一様式」と呼ばれる独自のスタイルを確立しますが、「ヤキバノカエリ」はその様式が完成を見る、あるいはその萌芽(ほうが)を色濃く示す作品の一つと位置づけられます。晩年の熊谷は、色彩学に基づいて緻密に計算された配色を行い、明暗ではなく、補色(ほしょく)関係の性質を利用してものの立体感や光と闇を表現しようとしたと分析されています。本作においても、そうした色彩への深い探求の一端がうかがえるかもしれません。
作品名「ヤキバノカエリ」が示すように、この絵は火葬を終えて帰る情景を描いています。画面には熊谷守一自身、長男の黄、そして次女の榧(かや)が簡潔な形で描かれ、長男が骨箱を手にしているとされます。長女・萬というかけがえのない命を失った深い悲しみと、それを受け入れようとする画家の死生観が、この作品の主題をなしています。
モチーフは極限まで単純化され、抑えられた色調が使われていることから、個人的な悲しみでありながらも、生の儚(はかな)さ、失われた命への哀惜(あいせき)、そしてそれでも続く日常の厳しさといった普遍的なテーマを表現しようとしていると考えられます。感情を抑制し、出来事を客観的に捉えようとする画家の内省的な心境が、抽象化された形と色彩によって示唆されており、彼の芸術における赤裸々な自己表現の一つとして、多くの鑑賞者に問いかけています。
「ヤキバノカエリ」は、熊谷守一がそれまでの写実的な表現から、より単純化された独自の画風へと移行する上での画期的な作品として評価されています。特に1948年制作の「裸婦(らふ)」とともに、太い輪郭線と単純なフォルムで描かれ、熊谷独自の画風確立に大きく寄与したと美術史において位置づけられています。
熊谷守一は、若い頃から画壇(がだん)の評価に左右されることなく、自らの信じる表現を追求し続けた画家であり、晩年には「画壇の仙人(せんにん)」と称され、文化勲章の内示を辞退した逸話(いつわ)は、彼の名誉や金銭に執着しない人物像を象徴しています。彼の確立した「熊谷様式」と呼ばれる独特の作風は、現在も高く評価されており、美術品市場でも高い人気を誇ります。
この作品が志賀直哉(しがなおや)の小説『和解(わかい)』の装丁(そうてい)に用いられたように、文学界にも影響を与えました。「ヤキバノカエリ」は、熊谷守一の芸術の奥深さ、特に彼の作品が持つ生命を慈しむような明るい印象の根底にある、人間としての深い悲しみや哲学を理解する上で不可欠な作品であり、日本の近代美術史(きんだいびじゅつし)において重要な意義を持つものとして、後世の多くの画家や鑑賞者に影響を与え続けています。