オーディオガイド トップに戻る
0:00
0:00

スフィンクス―ミュリエル・ベルチャーの肖像

フランシス・ベーコン

NHK日曜美術館50年展に際し、フランシス・ベーコンの傑作「スフィンクス―ミュリエル・ベルチャーの肖像」が展示されています。この油彩作品は1979年に制作され、現在は東京国立近代美術館に所蔵されています。ベーコンの友人であり、ロンドンの伝説的なクラブ「コロニー・ルーム」のオーナーであったミュリエル・ベルチャーをモデルに、その複雑な内面性と謎めいた存在感をスフィンクスになぞらえて描いた、深く心理的な肖像画です。

背景・経緯・意図

この作品が制作された1979年は、フランシス・ベーコンがすでに確立された巨匠としての地位を築いていた時期にあたります。モデルとなったミュリエル・ベルチャーは、ベーコンにとって公私にわたる親しい友人であり、彼の芸術活動を支えた人物の一人でした。ベルチャーはロンドンのソーホー地区にあった「コロニー・ルーム」というメンバーズクラブのオーナーで、このクラブはベーコンをはじめとする多くの芸術家、作家、俳優たちの社交場となっていました。ベーコンは、モデルの身体的特徴を正確に描写することよりも、その人物が持つ心理的な本質や内面の葛藤をカンヴァス上に表出させることを重視していました。本作において、ベルチャーを古代エジプトの神話に登場する「スフィンクス」になぞらえているのは、彼女の持つ謎めいた魅力や、時に人々を試すかのような強い個性を象徴していると考えられます。ベーコンは、人間の存在そのものが抱える不確実性や苦悩、そして生の断片的な側面を探求する意図をもって、この肖像画を描き上げました。

技法や素材

「スフィンクス―ミュリエル・ベルチャーの肖像」は、油彩(ゆさい)が用いられたカンヴァス作品です。ベーコンの絵画技法は、その激しい筆致と独特の表現力によって特徴づけられます。彼はしばしば、対象の形態を歪(ゆが)めたり、ぼかしたり、あるいは分解するかのような描写を用いました。この作品においても、人物の顔や身体の輪郭は曖ソン(あいまい)にされ、部分的に塗り重ねられた絵の具の層が、内面のざわめきや動きを感じさせます。また、彼の作品にはしばしば、人物が配置される空間にガラスやケージのようなフレーム状の線が描き込まれることがありますが、これは人物の孤独や閉じ込められた状態、あるいは観る者との距離感を強調する効果があると考えられます。鮮やかな色彩のコントラストと、荒々しくも計算された筆致は、見る者に強烈な印象を与え、作品の持つ心理的な深みを増幅させています。

意味

本作の主要なモチーフであるミュリエル・ベルチャーは、ベーコンが人生で最も頻繁に描いた人物の一人です。作品名にある「スフィンクス」という言葉は、ギリシャ神話やエジプト神話に登場する謎めいた半人半獣の怪物を示唆しています。スフィンクスは旅人に謎をかけ、答えられなければ命を奪う存在として知られ、英知と残酷さ、そして神秘性を象徴します。ベーコンが親しい友人をスフィンクスになぞらえたことは、ベルチャーの人柄が持つ多面性、あるいは彼がベルチャーの内に見出した普遍的な人間の深層を表現しようとしたものと考えられます。ベーコンの肖像画は、単なる外見の再現ではなく、人間の存在が抱える不安、孤独、そして生と死という根源的なテーマを探求する彼の芸術的姿勢を強く反映しています。歪められた顔や不明瞭な身体の表現は、人間の肉体の脆弱性(ぜいじゃくせい)と同時に、精神的な葛藤や本能的な衝動が表面化している様子を描いていると言えるでしょう。

評価や影響

フランシス・ベーコンは、20世紀後半のイギリス美術において最も重要かつ影響力のある画家の一人と広く評価されています。彼の作品は発表当時から賛否両論を巻き起こしましたが、その強烈な表現力と人間の心理の深奥に迫る主題は、多くの観る者に衝撃を与えました。特に、人間の姿を歪(ゆが)め、再構築する彼の肖像画は、戦後の実存主義的な思想と深く結びついており、現代社会における人間の疎外感や不安を視覚的に表現したとされています。この「スフィンクス―ミュリエル・ベルチャーの肖像」もまた、ベーコンの代表的なモチーフと技法が凝縮された作品として、彼の芸術的探求の深さを示すものとして評価されています。後世のアーティストたち、特に具象(ぐしょう)表現や人間の内面を描こうとする画家たちに与えた影響は計り知れません。彼の作品は、美術史において、単なる肖像画の枠を超え、人間の存在そのものを問い直す哲学的な絵画として、確固たる地位を築いています。