下村観山
下村観山展に際し、1902年(明治35)に制作された下村観山による「束帯天神像」について紹介します。
本作「束帯天神像」は、明治時代を代表する日本画家である下村観山が1902年(明治35)に制作し、太宰府天満宮に所蔵されている作品です。下村観山(1873-1930)は、狩野芳崖や橋本雅邦に師事し、東京美術学校(現在の東京藝術大学)で学びました。1898年(明治31)に岡倉天心が東京美術学校長を辞職した際、観山もまた横山大観、菱田春草らとともに学校を去り、日本美術院の設立に参画しました。彼は岡倉天心の美術思想を絵画上で表現する優れた技量を持っていたと評されています。
菅原道真公(845-903)は、優れた文化人であり政治家として知られ、太宰府でその生涯を閉じました。道真公の墓所の上に祠が建てられたのが太宰府天満宮の始まりとされ、以来、道真公は天神さまとして広く崇敬を集めています。天神さまを描いた像は大きく二つに分けられ、平安貴族の正装である束帯姿で描かれる「束帯天神像」と、唐服姿で描かれる「渡唐天神像」があります。本作品は、前者の「束帯天神像」の形式で描かれています。太宰府天満宮には南北朝時代から近代に至る600年間の140件を超える天神像コレクションがあり、その中で観山の作品は明治時代の「束帯天神像」として位置づけられています。
下村観山は、初期の日本美術院において、西洋画を意識した革新的な試みとして、空気や光線を表すために輪郭線を用いずにぼかしを伴う色面描写を試みました。この技法は「朦朧体」と揶揄されることもありましたが、観山は無線描法による背景表現と綿密な線描による主要モチーフを巧みに融合させた折衷的な作品も発表するなど、多様な表現を追求していました。
本作品「束帯天神像」が制作された1902年(明治35)は、観山が日本美術院での活動を通じて新たな日本画の創造に取り組んでいた時期にあたります。具体的な素材についての詳細な記録は限られますが、当時の日本画の一般的な慣例として、絹本(絹を支持体とする)に岩絵具や水干絵具、墨などを用いて描かれたものと考えられます。束帯姿の道真公を表現するにあたり、伝統的な日本画の描写力と、観山が探求していた写実性や空気感の表現が融合されている可能性が指摘されます。
「束帯天神像」は、菅原道真公が平安時代の貴族の正装である束帯を身につけた姿で描かれる形式であり、多くの場合、道真公ゆかりの梅や松とともに表現されます。この形式は、道真公が生前、学問の神、詩歌の神として卓越した才能を発揮した文化人、また国家の要職を担った政治家としての側面を強調し、その威厳と高潔さを象徴しています。
下村観山の「束帯天神像」は、明治という時代において、伝統的な信仰の対象である天神さまを、近代日本画の手法をもって表現しようとした意義を持ちます。古典的な主題に新たな息吹を吹き込むことで、観山の画家としての深い教養と、革新的な表現への意欲を示す作品の一つと言えます。
下村観山は、横山大観や菱田春草とともに、日本画の近代化に大きく貢献した画家の一人です。1902年の「束帯天神像」制作後、観山は1903年から1905年にかけてイギリスに留学し、色彩研究と西洋画の模写を通じて技術を磨きました。この留学経験は、帰国後の彼の画風に大きな影響を与え、日本画の表現領域を広げることにつながりました。
「束帯天神像」そのものに対する個別の評価は、他の代表作に比べて多くは語られていませんが、観山の画業の中では、留学以前の日本美術院での研鑽期に位置づけられる作品です。太宰府天満宮に所蔵され続けている事実は、作品が持つ宗教的・美術的価値が認められていることを示しています。観山の作品は、古典の探求から生み出された新技法による追及を完成させた「弱法師」(1915年)など、その後の大作へと繋がる堅実な歩みの一部として評価されています。近年開催された「下村観山展」では、初期作品から絶筆までが網羅され、観山の全体像を捉え直す機会が提供されています。この作品も、観山が様々な主題や様式に取り組んだ画業の多様性を示す貴重な作例と言えるでしょう。