下村観山
下村観山展より、下村観山による作品「大原之露」をご紹介します。
「大原之露」は、日本画家・下村観山が1900年(明治33年)に制作した日本画です。現在は茨城県近代美術館に所蔵されています。縦248センチメートル、横171センチメートルという大画面に、絹本彩色軸装で描かれています。
この作品は、1900年に開催された「第9回日本絵画協会・第4回日本美術院連合絵画共進会」に出品され、特別賞である金牌を受賞しました。これは、通常の最高賞である銀牌を上回る評価でした。
作品の題材は、日本の古典文学の傑作『平家物語』を基にした謡曲「大原御幸(おおはらごこう)」から取られています。平家が滅亡した後に出家し、大原の寂しい山里に隠棲していた建礼門院(平清盛の娘、徳子)を、後白河法皇が訪ねる場面を描いています。しかし、観山は法皇や建礼門院といった主要な人物を画面に直接描かず、代わりに、近くの山に花を摘みに出た法皇とそのお供の視線の先、つまり画面の外に建礼門院の存在を暗示する手法を用いています。この構図は、鑑賞者に想像の余地を与え、物語の情景や登場人物の心境を深く感じさせることを意図していると考えられます。
下村観山は、1898年(明治31年)に東京美術学校を辞職し、岡倉天心らとともに日本美術院の創設に参加した画家の一人です。 この時期の日本美術院では、西洋絵画の影響を受けて空気や光線を表現するために、輪郭線を用いずにぼかしを伴う色面描写を用いる「朦朧体(もうろうたい)」という革新的な技法が試みられていました。観山は、「大原之露」が制作された1900年頃には、古典的な線描表現と朦朧体的な表現を融合させるなど、新しい日本画の可能性を精力的に探求していました。
「大原之露」は、絹を支持体とし、岩絵具などの顔料を用いて彩色された軸装作品です。 観山がこの時期に模索していた、線描と色面描写を巧みに組み合わせる技法が本作にも反映されている可能性があります。これにより、繊細かつ深みのある画面が作り出され、大原の里の静謐な雰囲気や、建礼門院の心情を表す叙情的な表現が追求されています。
『平家物語』の「大原御幸」は、栄華を極めた平家の滅亡と、その中で生き残った建礼門院の悲哀、そして世の無常を象徴する物語です。「大原之露」というタイトルは、大原の里に宿る露のように儚い世の移ろいや、建礼門院の孤独な境遇を暗示していると考えられます。主要人物を直接描かずに、周囲の自然や情景を通して物語を語らせる観山の表現は、鑑賞者に深い共感を促し、日本美術が伝統的に培ってきた間接的な表現の美しさを際立たせています。
「大原之露」が発表当時、特別賞の金牌を受賞したことは、観山の確かな画力と、新しい時代における日本画の表現に対する高い評価を示すものです。下村観山は、狩野芳崖や橋本雅邦に師事し、東京美術学校で学んだ後、岡倉天心とともに日本美術院を創設するなど、近代日本画の形成において中心的な役割を果たしました。
観山は、日本の古典絵画や中国絵画を深く学び、さらにイギリス留学を通じて西洋絵画の色彩や陰影表現を研究しました。 その後、東西の絵画表現を自身の作品の中で消化し、融合させることで、独自の画風を確立しました。「大原之露」は、観山が日本美術院の創設期において、伝統的な題材を新たな視点と技法で描き出し、近代日本画の新たな方向性を示した重要な作品の一つとして、その後の日本画壇に影響を与えました。