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鍾馗

下村観山

下村観山作 《鍾馗》 (1922年)

この度ご紹介いたしますのは、近代日本画壇の巨匠、下村観山(しもむら かんざん)が1922年(大正11年)に制作した「鍾馗」(個人蔵)です。この作品は、観山が画業の円熟期を迎えていた大正時代に描かれたものであり、彼の芸術的探求と日本画の伝統継承への意識が色濃く反映されています。

制作の背景と意図

下村観山は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家であり、狩野芳崖や橋本雅邦に師事し、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の第一期生として学びました。横山大観や菱田春草らと共に日本美術院の創設に参加し、近代日本画の革新に大きく寄与した人物です。特に、1922年(大正11年)は観山が帝室技芸員に任命された年でもあり、その卓越した技量と画業が国家によって認められた時期にあたります。

「鍾馗」は、中国の民間伝承に由来する道教系の神であり、日本では古くから疫病除けや魔除け、学業成就の神として信仰されてきました。端午の節句には、鍾馗の絵や人形を飾る風習があります。観山がこの伝統的な画題をこの時期に手掛けた背景には、世の安寧を願う普遍的な祈りや、古典的な主題を通して自身の芸術性を深めようとする意図があったと考えられます。

技法と素材

下村観山の画風は、やまと絵や琳派の影響を受けながら、西洋絵画の色彩や写実表現も取り入れた独自のものです。彼は「たらしこみ」(絵具が乾かないうちに他の色を垂らし、紙の上で混色する技法)、「彫り塗り」(描線を塗りつぶさないように線を避けて彩色する技法)、そして「付け立て」(輪郭線を用いず、筆の側面を利用して一筆で陰影や立体感を表す技法)といった伝統的な日本画の技法を巧みに用いました。

具体的な素材としては、日本画の伝統に則り、絹本に着色されたものと推測されます。観山は西洋留学で洋画の色彩を学び、帰国後は西洋顔料も使用していたとされており、本作においても、伝統的な岩絵具に加えて、そうした西洋由来の顔料が効果的に用いられている可能性があります。観山作品の特徴である格調高く華やかな画面構成や、繊細で確かな筆致は、この「鍾馗」においても発揮されているでしょう。

作品の意味

「鍾馗」は、長い髭をたくわえ、長靴をはき、右手に剣を持つ姿で描かれることが多く、疫鬼を退け、魔を除く神として知られています。観山の「鍾馗」もまた、この図像的特徴を踏襲し、その威厳ある姿を通じて、災厄を払い、福を招くという強い意味合いが込められていると考えられます。大正という時代は、西洋文化の流入と日本の伝統との間で社会が大きく変化していた時期であり、観山は伝統的な護符的な意味を持つ鍾馗を描くことで、時代の不安に対する精神的な拠り所を表現しようとしたのかもしれません。

評価と影響

下村観山の作品は、その卓抜した技法と徹底した古典研究に裏打ちされており、近代日本画の発展において重要な役割を果たしました。彼は、横山大観や菱田春草らが様式上の革新を追求したのとは対照的に、日本の伝統を尊重し、古来の技術継承に重きを置いたと評価されています。

1922年に帝室技芸員に任命されたことは、観山の画業が国家的にも高く評価されていた証しです。彼の幅広い古典研究の成果は、今村紫紅、安田靱彦、小林古径といった日本美術院の第二世代の巨匠たちに大きな影響を与え、その後の日本画の進展に多大な貢献をしました。この「鍾馗」もまた、観山が日本の伝統的な画題に深い精神性と現代的な感性を融合させた、その円熟した筆致を示す一例として、美術史的にも高く評価されるべき作品です。