下村観山
下村観山展より、下村観山の作品「魔障」についてご紹介いたします。
「魔障」は、日本画家である下村観山が1910年(明治43年)に制作した作品です。同年開催された第4回文展に出品されました。下村観山は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家であり、本作品が制作された1910年当時、観山は37歳で、画家として円熟期を迎えていました。この時期の観山は、古画の研究成果と自身の独創性を融合させた作品を多く手掛けており、本作もその一つです。本作品は、第4回文展出品後、横浜の実業家である原三溪の所蔵となり、その後1948年(昭和23年)の原三溪旧蔵品の一括購入により、東京国立博物館の所蔵となりました。
本作品は、紙本墨画(しほんぼくが)を基調とし、わずかな金泥(きんでい)と胡粉(ごふん)を用いて描かれた白描画(はくびょうが)です。白描画とは、墨の線のみで描かれた絵画を指します。横長の画面に、緻密な筆致で細部まで描写されており、観山が線描表現に特に注意を払っていたことがうかがえます。実際に、本作品の完成までには複数の下図や画稿が確認されており、観山が幾度も試行錯誤を重ね、本画へと至る作画過程が明らかになっています。作品のサイズは縦63.6cm、横172.7cmです。
作品名である「魔障」とは、仏道修行を妨げる様々な悪魔や障害を意味します。画面には、古びた一宇の堂の中で、異形の怪仏と僧侶が対峙する様子が描かれ、その周囲には様々な姿かたちの魔物が徘徊しています。僧侶の前にいるのは、如来の姿に化けた魔物であり、僧侶はまさに修行を妨げる「魔障」と向き合っている情景です。本作品は、釈迦如来の前に座る僧侶に去来する多様な煩悩を、あたかも「鳥獣戯画」のように擬人化された十二支の動物になぞらえて表現しているとも解釈されています。
観山は、この作品の着想源として、日本の古典絵画である「鳥獣人物戯画」と「弘法大師行状絵(こうぼうだいしぎょうじょうえ)」の二つから影響を受けていると考えられています。 特に、「弘法大師行状絵」に見られる、大師が修行中に魔物から妨害を受ける場面や、堂内で魔物が大師の説法に耳を傾ける構図などから、本作の基本的な画面構成や主題が導き出されたとされています。また、縁側に座る女性の姿は、釈迦が悟りを開く際に魔王が三女を遣わして誘惑したという仏教の伝承を想起させるとも言われています。 観山の古画研究の豊富さが、本作の深い意味合いと諧謔性豊かな表現に繋がっています。
「魔障」は、下村観山の画家としての円熟期における代表作の一つと評価されています。 観山は、狩野派、大和絵、琳派、中国絵画、そして西洋絵画といった東西の伝統的な絵画表現を徹底的に学び、それを自身の作品に自在に取り入れました。 その中でも本作は、観山が古画研究の成果と自身の独創性を融合させ、他の追随を許さない卓越した筆致を遺憾なく発揮した白描画の傑作とされています。 「魔障図」に関する体系的な作品研究も行われており、近代における白描画の試論としても位置付けられています。 本作は、明治から大正にかけて、日本画が新たな表現を模索する中で、観山が古典を深く理解しつつ、現代的な感覚で再構築しようとした姿勢を示す重要な作品と言えます。