下村観山
下村観山の「美人と舎利」は、1909年(明治42年)に制作された双幅の絹本着色作品であり、愛知県の豊田市美術館に所蔵されています。右幅には艶やかな女性が、左幅には宙吊りの骸骨が描かれ、互いに対峙する構図が鑑賞者に深い問いかけを投げかける作品です。
この作品が描かれた1909年頃は、下村観山が横山大観や菱田春草らと共に日本美術院を茨城県五浦に移し、日本画の新たな表現を追求していた時期にあたります。観山は能楽師の家系に生まれ、狩野芳崖や橋本雅邦に師事した後、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の第一期生として学びました。1903年(明治36年)には文部省の派遣留学生としてイギリスへ渡り、西洋絵画の色彩や水彩画を研究し、その後の作品に影響を与えたとされています。
「美人と舎利」という作品名にある「舎利」とは、人骨を意味します。この作品は、一見すると対照的な「美人」と「骸骨」を並べることで、生と死、美と醜、そして人間の情念という普遍的なテーマを象徴的に表現しようとした観山の意図が読み取れます。特に、両幅を同じ高さに掛けても、描かれた両者の視線がかみ合わない点は、二つの存在の隔絶や、ある種の意味深さを暗示しています。
作品は絹に色彩を施す日本画の伝統的な技法で描かれています。観山は、画室にこもり古画や古代衣装の研究に熱心であったと伝えられており、緻密で真面目な性格から、その描写には精密さが際立っています。
右幅に描かれた女性の装いには、作品の深い意味を読み解くための手がかりが幾重にも秘められています。女性の髪型は、江戸中期に見られた髱(たぼ)を長く垂らした「捌き髪(さばきがみ)」であり、眉を剃り落とし、お歯黒をしていることから既婚女性であることがわかります。また、胸元には高貴な身分を表す「五七の桐紋」が描かれています。
打掛には、葵のような心臓形の葉を放射状に繋いだ大きな丸文様が施されており、これは「河骨(こうほね)文様」と解釈されています。さらに帯には「芭蕉葉(ばしょうば)文様」が描かれています。これらの文様や女性の装いから、この美人の正体は、『源氏物語』や能の『葵上』に登場する「六条御息所(ろくじょうみやすどころ)」である可能性が高いと指摘されています。
六条御息所は、源氏の君の正妻である葵上を生霊となって苦しめ、死に至らせた情念深い女性として知られています。打掛の芥子色(けし色)は、調伏の護摩に使われる芥子を連想させ、『源氏物語』において生霊となった六条御息所から芥子の匂いが取れなかったという描写と結びつけられます。また、芭蕉葉文様は女の幽霊や美女の悲恋を意味するとも言われています。これらの解釈を踏まえると、本作品は六条御息所の深い情念とその結末、あるいは彼女の生霊と、その情念によって命を落とした葵上の死後の姿(舎利)を対比させていると考えられます。
下村観山は、岡倉天心の美術思想を絵画で表現した画家として高く評価されています。温厚な人柄で、世俗を避け、ひたすら自身の芸術を追求したと伝えられています。観山自身は美術思想をあまり語ることがなかったため、議論を好んだ横山大観や菱田春草とは画論で深く交わることが少なかったという逸話も残されています。
「美人と舎利」は、単なる美人画としてではなく、古典文学に材を取りながら、象徴的な表現を通じて生と死の根源的な問いを提示した点で、日本画における新たな境地を開いた作品として評価されています。豊田市美術館のコレクションの中でも重要な位置を占める作品であり、観山の深い精神性と卓越した技量を示すものとして、現在も多くの人々に鑑賞されています。