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六十余州名所図会 薩摩 坊ノ浦双剣石 (Pictures of Famous Places in the Sixty Odd Provinces: Satsuma Province, Bonoura Bay, The Two-sword Rocks)

歌川広重 (UTAGAWA Hiroshige)

歌川広重作 「六十余州名所図会 薩摩 坊ノ浦双剣石」

本作品は、幕末の浮世絵師、歌川広重(うたがわひろしげ)が晩年に手がけた大判錦絵「六十余州名所図会(ろくじゅうよしゅうめいしょずえ)」全69図のうちの一枚、「薩摩 坊ノ浦双剣石(さつま ぼうのうらそうけんせき)」です。安政3年3月(1856年)に制作されました。

制作背景と意図

歌川広重は、1797年に江戸の定火消同心、安藤源右衛門の子として生まれ、後に浮世絵師となりました。歌川豊広(うたがわとよひろ)に師事し、風景画の分野で頭角を現します。特に代表作である「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)」は空前の大ヒットとなり、旅行ブームを牽引しました。

「六十余州名所図会」シリーズは、1853年(嘉永6年)から1856年(安政3年)にかけて制作され、日本全国の五畿七道(ごきしちどう)68ヶ国と江戸の名所を描いた大作です。これは、当時の人々が旅への憧れを抱く中で、日本各地の風光明媚な景勝地やその土地ならではの風物を紹介する「観光カタログ」のような役割を果たすことを意図して制作されました。広重は、このシリーズにおいて、淵上旭江(ふちがみきょっこう)の『山水奇観(さんすいきかん)』などの先行する地誌や絵本を参考にし、各地の名所を独自の視点で表現しました。

「薩摩 坊ノ浦双剣石」が描かれた薩摩国坊ノ浦(現在の鹿児島県南さつま市坊津町)は、古くは遣唐使の寄港地としても知られる歴史ある場所であり、その景勝地は「坊津八景」の一つにも数えられています。海中から剣のようにそびえ立つ奇岩「双剣石」は、古くからその地の象徴として人々に親しまれ、広重もこの風景に深く感銘を受け、画題として選びました。

技法と素材

本作品は、大判(約39×27cm)の錦絵(にしきえ)という多色摺りの木版画です。浮世絵の制作には、絵師が描いた下絵を彫師が版木に彫り、摺師が和紙に色を摺り重ねるという分業体制がとられました。

広重の風景画の特徴は、季節や天候による情景の巧みな表現にあります。特にこの「六十余州名所図会」シリーズでは、空や海面などの広がりや深みを表現するために、顔料の濃淡を段階的に変化させる「拭きぼかし(ふきぼかし)」や、その中でも高度な技術を要する「あてなしぼかし」といった摺りの技法が多用されました。画面に奥行きと詩情を与えるこれらの技法は、摺師の熟練した技術によって実現されています。色彩においては、特に鮮やかな青色、いわゆる「広重ブルー」や「ジャパンブルー」と呼ばれる色が特徴的で、これは当時ヨーロッパから輸入された新しい顔料であるベロ藍(プルシアンブルー)の使用によって実現されました。用紙には越前生漉奉書(えちぜんきずきほうしょ)などの上質な和紙が用いられています。

作品の持つ意味

「薩摩 坊ノ浦双剣石」は、海上に堂々とそびえ立つ二つの岩、高さ27mの「大太刀(おおだち)」と高さ21mの「小太刀(こだち)」を印象的に描いています。広重は、縦長の画面の中に、名所をクローズアップし、大小の対比を強調することで、雄大な自然の迫力と存在感を表現しました。また、岩の周りを行き交う小舟が描かれることもあり、これは壮大な自然の中に生きる人々の営みをも示唆しています。この作品は、単なる風景描写にとどまらず、坊ノ浦が持つ歴史的背景や文化的な意味合いをも内包し、鑑賞者に遠い地の絶景への想像を掻き立てるものでした。

評価と影響

歌川広重は、葛飾北斎(かつしかほくさい)と並び称される風景版画の大家として、江戸時代後期に絶大な人気を誇りました。彼の作品は、当時の庶民に旅行の楽しみを伝え、全国各地の名所への関心を高める役割を果たしました。

19世紀後半に浮世絵がヨーロッパに紹介されると、広重の作品は大胆な構図、独特の遠近法、そして鮮やかな色彩によって、特に印象派やポスト印象派の画家たちに大きな影響を与えました。フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)やクロード・モネ(Claude Monet)といった画家たちも、広重の作品からインスピレーションを受け、その影響は西洋美術史に深く刻まれています。

現代においても、広重の風景画は、その詩情豊かな表現と繊細な情景描写により、多くの人々に愛され続けています。特に「六十余州名所図会」シリーズは、描かれた場所の多くが現在も残されており、江戸時代の「観光カタログ」を通して、時を超えた日本の美しい風景を再発見する機会を提供しています。この「薩摩 坊ノ浦双剣石」が描かれた双剣石一帯は、その景観と歴史的・文化的背景が評価され、2001年には国の名勝「坊津」として指定されています。広重の浮世絵は、この地の美しさを広く知らしめる一助ともなりました。