ヴォルフガング・ティルマンス
ヴォルフガング・ティルマンスの作品「ザ・コック(キス)」は、2002年に制作された発色現像方式印画の写真作品です。この作品は、テート美術館が企画する「テート美術館 ― YBA & BEYOND 世界を変えた90s英国アート」展で紹介されています。同展は、1980年代後半から2000年代初頭にかけての英国美術に焦点を当て、約60名の作家による約100点の作品を通じて、90年代の英国アートシーンの革新的な軌跡を検証するものです。
ヴォルフガング・ティルマンスは、1968年にドイツで生まれ、現在はベルリンとロンドンを拠点に活動する写真家・アーティストです。彼は一貫して、身体、人々、オブジェといったものの脆さを捉えることに重点を置いてきました。彼の作品は、写真における新たな主観性を象徴し、社会批判、既存の価値観や制度への問いかけ、そして親密さや遊びの要素を組み合わせています。
ティルマンスは、1980年代後半にイギリスのストリートマガジン「i-D」などでアシッドハウスのクラブシーンを撮影し、注目を集めました。初期の作品では、性の解放、国境を越えた旅、一体感の喜びといった彼の個人的な世界に鑑賞者を誘うものでした。
「ザ・コック(キス)」は、2002年にロンドンのゲイクラブ「ザ・コック」で撮影されたスナップ写真です。この作品は、クラブで親密にキスをする二人の男性を捉えており、派手さではなく、充実した瞬間の本物らしさを追求するというティルマンスの意図が反映されています。彼は、何が許され、何が許されないのか、何が受け入れられ、何が受け入れられない言動と見なされるのかといった境界線への関心を自身の作品を通して表現しています。
この作品は「発色現像方式印画/紙」という技法と素材で制作されています。発色現像方式印画は、カラー写真のプリントに一般的に用いられるプロセスであり、Cタイププリントとしても知られています。ティルマンスは、ピクセル操作を行わず、光がセンサーに当たった点を紙にプリントするという意味で、自身をアナログ写真家であると位置づけています。これにより、写真のマテリアル性(物質性)が強調されます。
ティルマンスは、額装されていない多様なサイズのプリントを壁に直接貼ったり、バインダークリップで吊るしたりするなど、独自のインスタレーション手法で知られています。彼はインスタレーション自体を一つの作品と捉え、作品の「脆さと即時性」を重視しています。
「ザ・コック(キス)」は、ヴォルフガング・ティルマンスの代表作の一つであり、美術館の常連客でなくとも馴染みのある作品として認識されています。当初は、ゲイの欲望と性的解放を讃える意味合いを持っていましたが、2016年にフロリダ州オーランドのゲイクラブ「パルス」で発生したヘイトクライムによる銃乱射事件の後、ソーシャルメディア上で広く拡散され、その意味合いが変化しました。この出来事により、作品はゲイの欲望を讃えるものから、公民権に対する反抗的な主張へと意味を深めました。これは、ティルマンスの作品が時代の変化と共に進化し、彼が政治活動家としての関与を強め、自由が脆く保護されるべきものであることを主張するようになったことを反映しています。
ティルマンスは、1990年代以降、常にその時代の視覚文化を更新し続けてきたと評価されており、商業写真とファインアートの境界線を曖昧にした功績も大きいとされています。2000年には、写真家としては初めてイギリス人以外のアーティストとしてターナー賞を受賞し、その国際的な影響力を示しました。彼の独特な展示スタイルは、多くの後続アーティストに影響を与えています。