ジリアン・ウェアリング
テート美術館 ― YBA & BEYOND 世界を変えた90s英国アート展より、ジリアン・ウェアリングの作品《ダンシング・イン・ペッカム》を紹介します。
この作品は、1994年に制作された25分のDVD映像作品です。アーティストのジリアン・ウェアリングは、1990年代にロンドンで活躍した「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト(YBA)」の一員として知られ、アイデンティティや公共と個人の領域、社会規範の限界などを探求する作品を多く手掛けてきました。彼女の作品は、しばしば写真や映像を用いて、ドキュメンタリー的かつパフォーマンス的な視点から人間の本質に迫ります。
《ダンシング・イン・ペッカム》は、ウェアリングがロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールで、ジャズバンドの演奏に合わせず、ただひたすら夢中で踊り続ける女性を目撃したことに着想を得て制作されました。 彼女はその女性の姿に強く惹かれ、公共の場で個人が完全に自己の世界に没入する「異様さ」や「他者性」を再演することを試みました。 この作品は、フラッシュモブやTikTokダンスのようなソーシャルメディアにおけるダンスのトレンドが普及する数十年前から、公共の場でのパフォーマンスとは何か、その境界を問いかけるものでした。 また、特に女性に課される「望ましい身体」の条件という、身体のポリティクスを暴く側面も持っています。
作品は、ロンドン南東部ペッカムにあるエイレスハム・ショッピングセンターで撮影されました。 映像の中では、アーティストであるウェアリング自身が一人で自由に踊り続けていますが、彼女の耳にはヘッドホンも音楽もなく、聞こえるのはショッピングセンターの環境音や通行人の足音、ざわめきだけです。 ウェアリングのカメラは、通り過ぎる人々をも意図せずパフォーマンスの参加者として捉えています。 彼女は自らの芸術を「一種のポートレート」と形容し、仮面や衣装、見知らぬ人々の協力などを通じて、見せかけや匿名性が、私たちが何者であるか、そして何者であると見せかけているのかという深い真実を逆説的に明らかにすると述べています。
この作品は、公共空間で音楽のないまま踊る女性の姿を通して、都市に潜む緊張とユーモアを描き出します。 自らをさらけ出すように踊るウェアリングの姿は、滑稽で、時には当惑させるようなイメージとして受け取られますが、それはまた、私たちが日常生活でどのように自分自身を表現しているのかという問いを提起します。 鑑賞者は、プライベートな行動が公共の場で行われることの違和感、そしてそれに対する周囲の反応を通して、個人と社会、見えるものと見えないものの関係性を深く考えることになります。 特に女性の身体によってこの行為が遂行されている点は決定的であり、身振りそのものだけでなく、女性の身体に結びついた規範によっても「異様さ」が形作られていることを示唆しています。
《ダンシング・イン・ペッカム》は、ジリアン・ウェアリングの代表作の一つとして高く評価されており、彼女は本作制作の3年後、1997年にはターナー賞を受賞しています。 この作品は、その後のテレビ番組制作者や広告業界にも影響を与えたと言われています。 2022年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)のコレクションに収蔵され、世界各地で展示されています。 ソーシャルメディアが普及する以前から公共の場での「自己の演出」という現代的なテーマを先取りして問いかけた点で、重要な作品と位置づけられています。