葛飾北斎
「北斎 冨嶽三十六景 井内コレクションより」展で紹介される葛飾北斎の「冨嶽三十六景 本所立川」は、江戸時代後期に制作された浮世絵風景画の傑作「冨嶽三十六景」シリーズの一図です。本作品は、当時の人々の生活風景と壮大な富士山を結びつけ、浮世絵における風景画の地位を確立しました。
「冨嶽三十六景」シリーズは、天保元年(1830年)から天保5年(1834年)ごろにかけて、70歳を超えた葛飾北斎によって制作されました。当時の日本では富士山信仰が盛んであり、この人気を背景に、北斎は富士山を主題とした名所絵の制作に着手しました。当初36図で発表されましたが、その高い人気から後に10図が追加され、全46図のシリーズとなりました。
「本所立川」が描かれた場所は、現在の東京都墨田区南部にあたる旧本所区立川で、隅田川と中川を結ぶ竪川(たてかわ)という運河が通っていました。この地には水運の便を活かした材木問屋が多数立ち並び、明暦の大火(1657年)以降、復興のための建築資材がこの地に蓄えられていたとされています。北斎自身、本所の割下水(わりげすい)で生まれ育ったため、この地によく通じており、材木置き場という日常的でありながら独特な景観に目をつけたと考えられています。作品の意図としては、庶民の働く姿を生き生きと描き出すこと、そして材木という幾何学的な要素を通じて斬新な構図を生み出すことが挙げられます. また、画面中には版元である西村屋与八(永寿堂)の「西村置場」の表札や「新板三拾六不二仕入」といったシリーズの宣伝文句が墨書されており、作品そのものが広告媒体としての役割も担っていたことがうかがえます.
「本所立川」は、多色刷りの木版画である大判錦絵として制作されました。浮世絵の制作は絵師、彫師、摺師による分業体制が採られていました。
まず、絵師である葛飾北斎が原画となる版下絵を描き、次に彫師がこの版下絵を版木に貼り付け、墨線に沿って彫り起こし、輪郭線となる「墨版(主版)」を制作します。その後、北斎が指定した色に従って、色ごとに異なる「色版」が彫られます. 版木には堅く粘りのある山桜が主に用いられました。この際、摺りの際に和紙の位置を正確に合わせるための「見当(けんとう)」という印も版木に彫り込まれます.
最後に摺師が、馬楝(ばれん)と呼ばれる道具を用いて、彫られた版木に絵具をのせ、和紙に摺り重ねていきます。和紙には礬水引き(どうさびき)が施され、湿らせた状態で摺られ、ぼかし摺りや地潰しなど、浮世絵時代に発展した多様な摺りの技法が駆使されました。特に、このシリーズでは当時ヨーロッパから輸入され流行していた化学顔料「プルシアンブルー」、通称「ベロ藍」が積極的に使用され、従来の日本の絵具にはない鮮やかで透明感のある青色が特徴となっています.
本作品は、材木置き場にうず高く積まれた材木の向こうに、遠景の富士山が顔をのぞかせている情景を描いています. 画面には、木挽きをする職人や、材木を高々と放り投げ受け取る職人たちの生き生きとした姿が描写されており、北斎が好んで描いた職人のテーマの一つがここにも見られます。
構図においては、垂直方向や斜め方向に複雑に組み合わされた無数の材木が幾何学的なリズムを生み出しています。材木の直線的な描写と、その中央に開けた空間から覗く三角形の富士山との対比が印象的であり、長さや太さの異なる材木を縦横に描き分けることで、画面全体に構成の面白さと深い遠近感がもたらされています。富士山以外のほとんどの要素を直線で構成するという緻密な計算が、作品に独特の画面効果を与えています。
「冨嶽三十六景」シリーズは、葛飾北斎70代の集大成ともいうべき代表作であり、斬新な構図と鮮やかな色彩で当時の人々から絶大な人気を博しました。これにより、風景画は浮世絵の主要なジャンルとして確固たる地位を築き、その後の日本の芸術に大きな影響を与えました。
国際的にも、北斎の作品は19世紀後半のヨーロッパで「ジャポニスム」と呼ばれる日本美術ブームを巻き起こし、特に印象派の画家たちをはじめとする西洋の芸術家たちに強い影響を与えました。フランスの画家アンリ・リヴィエールは「冨嶽三十六景」にオマージュを捧げた「エッフェル塔三十六景」を発表しています。1999年には、北斎はアメリカの雑誌『ライフ』によって「この1000年で最も偉大な功績を残した世界の人物100人」に唯一の日本人として選出され、その国際的な評価の高さを示しました。さらに2020年には、日本のパスポートの図柄にも「冨嶽三十六景」が採用され、その認知度と象徴性が改めて示されています。
「本所立川」もまた、島根県立美術館の浮世絵コレクションにおいて、摺りや保存状態が良好な優品の一つとして挙げられています。その独特な構図と、江戸の庶民の息遣いを感じさせる描写は、北斎の創造性と技量の高さを今に伝える貴重な作品です。