葛飾北斎
葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」シリーズから、「甲州伊沢暁」という作品についてご紹介します。
葛飾北斎(1760-1849)は、江戸時代を代表する浮世絵師であり、生涯にわたって30以上の画号を使い分け、絶えず画風を探求した「画狂人」と称されました。70歳代に入ってから、その代表作となる錦絵(多色摺りの浮世絵版画)の揃物「冨嶽三十六景」を次々と版行しました。本シリーズは天保2年(1831年)頃から版元・西村屋与八(永寿堂)によって刊行され、当初は三十六図の予定でしたが、好評につき「裏富士」と呼ばれる追加の十図が加わり、全四十六図で完結しました。
「冨嶽三十六景」の制作背景には、当時、庶民の間で盛んだった霊峰富士への民間信仰「富士講」による富士山ブームがありました。版元はこれに着目し、北斎に富士山の風景画制作を依頼しました。北斎は、江戸市中から東海地方に至る広範な地域からの視点で、場所、季節、気象条件によって刻々と表情を変える富士山の姿を描き出しました。
今回ご紹介する「甲州伊沢暁(こうしゅういさわのあかつき)」は、「冨嶽三十六景」の中の一図です。この作品は天保元年(1830年)から天保5年(1834年)頃に制作されたと考えられており、北斎が72歳頃の作品とされています。
作品の背景と意図 「甲州伊沢暁」は、現在の山梨県笛吹市石和(いさわ)にあたる甲州街道の宿場町、石和宿から望む早朝の富士山が描かれています。画面のタイトルに「暁」とある通り、北斎は日の出前の時間帯、夜明けの微妙な光の変化に焦点を当てています。宿場町には、早立ちする人々や馬が慌ただしく列をなし、旅情を誘う一場面が描写されています。
技法と素材 本作は、当時の浮世絵の主流であった多色摺りの木版画「錦絵」として制作されました。北斎は、「冨嶽三十六景」において、輸入されたばかりの化学顔料である「ベロ藍」(プルシアンブルー)を積極的に使用し、鮮やかな発色を実現しました。この斬新な色使いは、従来の浮世絵には見られないものでした。 構図においては、近景の宿場町、中景を流れる笛吹川(旧鵜飼川)、そして遠景にそびえる富士山が三分割され、見事に調和した風景を作り出しています。特に、手前の林立する小屋がリズミカルに配置され、遠景の富士の裾野に立ち込める朝靄が清澄な雰囲気を醸し出しています。朝靄の先には、朝焼けに染まりつつある富士山の偉容が姿を現そうとしている様子が描かれています。 なお、実際の石和宿からは御坂山地に遮られ、これほど鮮明に富士山を望むことは難しいとされていますが、北斎は、旅の途中で感じたスケッチを元に、想像力と卓越したデッサン力で「見えないものを描くの法」というデフォルメを施し、絵画としての美しさを追求しました。
意味と評価・影響 「甲州伊沢暁」は、宿場町の活気ある人々の営みと、夜明けの清々しい空気感、そして神々しい富士山が一体となった、旅の情景を象徴する作品です。北斎は、富士山を単なる景観としてだけでなく、庶民の日常や信仰と結びつけて描き、風景画を浮世絵の主要ジャンルとして確立させる大きな契機となりました。
「冨嶽三十六景」シリーズ全体は、その大胆な構図、鮮やかな色彩、そして型に捉われない自由な表現が評価され、日本国内だけでなく、19世紀後半に西洋で起こった「ジャポニスム」と呼ばれる日本美術ブームにおいて、ゴッホやモネ、ドガ、セザンヌなどの印象派をはじめとする多くの芸術家たちに大きな影響を与えました。現在も日本のパスポートの査証ページや新千円札の図柄に採用されるなど、国内外で高い評価を受け続けています。