葛飾北斎
国立西洋美術館で開催される「北斎 冨嶽三十六景 井内コレクションより」展にて紹介される葛飾北斎の傑作「冨嶽三十六景」の中から、「駿州片倉茶園ノ不二」は、富士山を背景に人々の営みが鮮やかに描かれた浮世絵風景版画の代表的な一枚です。
「冨嶽三十六景」は、江戸時代後期の浮世絵師・葛飾北斎が72歳頃にあたる天保元年(1830年)から天保3年(1832年)頃にかけて制作した連作です。当時、庶民の間で富士山を信仰する「富士講」が盛んになり、富士登山が流行していました。このブームに着目した版元・西村永寿堂の企画により、北斎は富士山を主題とした風景画の制作を依頼されました。
当初は36図の予定でしたが、その人気から追加で10図が制作され、最終的に全46図となりました。 本シリーズは、それまで美人画や役者絵が主流だった浮世絵界に風景画というジャンルを確立する金字塔となり、日本各地の様々な場所から望む富士山を、季節や気象条件、そしてそこに暮らす人々の営みと共に描写することを意図していました。
浮世絵は、絵師、彫師、摺師という専門職人たちの高度な分業体制によって生み出される日本の伝統的な木版画です。
まず、絵師である葛飾北斎が下絵を描き、版下絵に輪郭線と色の指示を加えます。次に、彫師がその版下絵を桜などの粘り気のある木板(板目木版)に貼り付け、墨線に沿って彫り進め、主版(墨版)を制作します。この際、版下絵は木板と共に削られるため、ほとんど現存していません。
その後、北斎が色見本となる校合摺(きょうごうずり)で彩色を指定すると、彫師は色ごとに複数の色版を彫ります。この色版には、正確な位置合わせのための「見当(けんとう)」と呼ばれる印が彫られます。 最後に、摺師がこれらの版木に水性の絵具を塗り、和紙を置いて「ばれん」と呼ばれる道具で丹念に摺り重ねていきます。
「冨嶽三十六景」では、当時西洋から輸入された新しい合成顔料「ベロ藍(プルシアンブルー)」が積極的に使用され、従来の日本の絵具にはなかった鮮やかで深みのある青色が表現されました。 「駿州片倉茶園ノ不二」においても、茶畑を囲む入江の水にこの鮮やかな藍色が効果的に使われています。
「駿州片倉茶園ノ不二」は、現在の静岡県東部にあたる駿河国(駿州)の茶園風景を描いています。駿河は古くから茶の名産地として知られていました。 「片倉」という地名は特定が難しいものの、富士市中野近辺の実在した場所、あるいは「徳倉」の誤記の可能性が指摘されています。
作品には、笠をかぶり茶を摘む女性たち、摘んだ茶葉を籠に詰める人々、天秤棒や馬の背に乗せて運ぶ男性たちなど、茶の生産に携わる人々の細やかな労働の様子が克明に描かれています。 まさに「働く人の絵」として、当時の庶民の生活風景をいきいきと伝えています。
前景の人々の営みの彼方には、泰然とした姿でそびえる富士山が描かれ、人々の労働を見守るかのような構図が特徴です。 馬の腹掛けには版元である西村屋与八の家紋がデザインされており、当時の版元間の競争の激しさを物語る宣伝効果も兼ねていたと推測されます。 茶畑の色が晩秋のように見えることから、北斎が実際に茶摘み風景を目にしたのではなく、想像で描いた可能性も指摘されていますが、この絵は富士山がもたらす豊かな恵みと、それによって営まれる人々の暮らしのつながりを表現していると言えるでしょう。
「冨嶽三十六景」は発表当時から大ヒットを記録し、その人気は追加制作に繋がるほどでした。 北斎の斬新な構図、自然や人物を生き生きと捉える卓越した表現力、そして「ベロ藍」を用いた鮮やかな色彩は、浮世絵風景画の分野を確立し、高い評価を受けました。
本シリーズを含む浮世絵は、19世紀後半にヨーロッパで「ジャポニスム」と呼ばれる日本美術の一大ブームを巻き起こし、西洋美術に絶大な影響を与えました。 クロード・モネやエドガー・ドガといった印象派の画家たちをはじめ、フィンセント・ファン・ゴッホなど多くの芸術家が、浮世絵の大胆な構図、遠近法にとらわれない視点、平面的な表現、そして鮮やかな色彩に衝撃を受け、自身の作品に取り入れました。
葛飾北斎は日本国内にとどまらず、世界的に最も有名な日本人画家の一人として知られ、1999年にはアメリカの雑誌『ライフ』で「この1000年で最も偉大な功績を残した世界の人物100人」に唯一の日本人として選出されました。 また、彼の「冨嶽三十六景」は現在の日本のパスポートの査証ページにも採用されており、日本が誇る芸術作品として国内外で広く認識されています。
今回の「北斎 冨嶽三十六景 井内コレクションより」展では、国立西洋美術館に寄託された井内コレクションから、本シリーズ全46図が一挙に公開されます。 一部の作品では表裏両面から鑑賞できる展示方法も採用されており、当時の人々が浮世絵を手に取って楽しんだ感覚を追体験できる貴重な機会となるでしょう。