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下目黒

葛飾北斎

葛飾北斎作「冨嶽三十六景 下目黒」

本作品は、江戸時代後期の浮世絵師、葛飾北斎による連作『冨嶽三十六景』の一図「下目黒」です。

制作の背景と意図

葛飾北斎は1760年に生まれ、生涯で30以上の画号を使用し、その活動は多岐にわたりました。50歳までは役者絵、美人画、本の挿絵などを手掛け、53歳で絵手本『北斎漫画』を発表しています。70歳代に入ってから、代表作となる『冨嶽三十六景』シリーズを版行しました。 『冨嶽三十六景』は、天保2年(1831年)頃から刊行が始まったとされる、北斎が72歳頃の作品です。当時の日本では、富士山を拝んで心願成就を願う「富士講」という民間信仰が盛んであり、このブームに着目した版元、西村永寿堂が北斎に富士山を題材とした風景画の制作を依頼したことが、このシリーズが生まれる契機となりました。当初は題名の通り36図で完結する予定でしたが、その人気からさらに10図が追加され、最終的には全46図が制作されました。これにより、美人画や役者絵が主流であった当時の浮世絵界に、風景画という新たな分野が確立されることとなりました。 「下目黒」は、現在の東京都目黒区下目黒一帯を描いた作品です。江戸時代、この地域は田畑が広がる農村であり、将軍が鷹狩りを行う「御鷹場」としても知られていました。日野原健司は、富士の眺望名所である行人坂からあえて外した構図に、北斎の個性的な表現が見られると指摘しています。作品には、この地域ののどかな日常風景を捉え、人々の生活の中に存在する富士山を表現するという北斎の意図が込められています。

技法と素材

本作品は、多色刷りの木版画として制作されました。浮世絵版画の制作は、絵師、彫師、摺師という専門職の分業体制で行われました。北斎が描いた下絵は、彫師が版木に貼り付けて線などを彫るため、絵師の直筆原稿は作品が完成すると同時に失われることとなります。 使用された版木は、堅くて粘りのある山桜が選ばれました。摺りには丈夫な和紙が用いられ、顔料は水で溶かして定着剤を混ぜずに和紙の繊維にきめ込むことで、鮮やかな発色を実現しました。『冨嶽三十六景』シリーズの初期36図、通称「表富士」では、輪郭線に輸入品のプルシアンブルー(ベロ藍)が使われたことが特徴です。また、「下目黒」においては、意図的に黄色を多用することで画面全体が明るく表現され、太陽の光が降り注ぐ様子が示されています。農地の質感表現には点描法が用いられています。

作品が持つ意味

「下目黒」は、画面の両側に配された小高い丘の間から、遠方に小さく富士山が顔を覗かせる構図が特徴です。手前には、道端で話をする鷹匠二人が鷹を手にしている姿や、畑仕事をする農夫、鍬を担いで畑へ向かう農夫、農家の母子などが生き生きと描かれています。これにより、江戸近郊ののどかな農村の日常風景と、その奥に広がる雄大な自然、つまり富士山が見事に融合されています。 目黒が将軍の御鷹場であったという歴史的背景は、鷹匠の描写によって示されています。また、遠近法が巧みに用いられており、小さく描かれた富士山のシルエットが絵全体に奥行きを与え、構図の妙が際立っています。色彩面では、黄色の畑や藁の束、緑の山林、朱色の地面といった暖色系が画面を支配し、青みがかった空と白い富士が浮かび上がることで、視覚的なリズムが形成されています。

評価と影響

『冨嶽三十六景』シリーズは、当時の江戸庶民に大ヒットし、風景画というジャンルを確立しました。葛飾北斎の芸術の集大成とも称されるこのシリーズは、現代においてもその価値が再認識されています。2020年には日本のパスポートの査証ページに『冨嶽三十六景』がデザインとして採用され、2024年にはシリーズの一図である「神奈川沖浪裏」が新千円札の裏面デザインに採用される予定です。 海外においても、北斎の作品は絶大な評価を得ています。19世紀後半に日本の美術工芸品がヨーロッパに渡ると、「ジャポニスム」と呼ばれる一大ブームを巻き起こしました。『冨嶽三十六景』に見られる大胆な構図、遠近法にとらわれない視点、そして日常風景を芸術へと昇華させる感性や鮮やかな色彩は、当時のヨーロッパ美術にはないものであり、西洋の芸術家たちに強い衝撃を与えました。クロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールといった印象派の画家たち、さらにはポスト印象派の画家アンリ・リヴィエール、アールヌーヴォーの工芸家たちにも影響を与え、印象派誕生の原動力の一つとなったとされています。アンリ・リヴィエールは『エッフェル塔三十六景』を制作しています。また、フランスの作曲家ドビュッシーの楽曲『海』も「神奈川沖浪裏」から着想を得たという説があります。 1999年には、アメリカの雑誌『ライフ』の企画「この1000年で最も偉大な功績を残した世界の人物100人」において、日本人としては唯一、葛飾北斎が選出されました。このように、葛飾北斎、そして『冨嶽三十六景』は、日本のみならず世界の芸術史に多大な影響を与えた作品として、その価値を不動のものとしています。