葛飾北斎
葛飾北斎の「東都浅艸本願寺」は、天保2年(1831年)頃から版元・西村永寿堂より刊行された、北斎の代表作「冨嶽三十六景」シリーズの一枚です。北斎が72歳頃に手掛けた本シリーズは、当初36図が制作され、後に10図が追加されて全46図となりました。
江戸時代後期、富士山に対する信仰心「富士講」が大流行し、富士山に見立てた「富士塚」が各地に造られるなど、人々は富士山に強い憧れを抱いていました。このような富士信仰の隆盛を背景に、北斎は富士山を主題とした風景画の制作に着手しました。
「東都浅艸本願寺」では、江戸市中でも屈指の規模を誇った東本願寺(現在の台東区西浅草)を舞台としています。 東本願寺は、明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼失した後、神田から浅草へと移転しました。その壮大な大屋根を持つ本堂は、当時の江戸の人々を驚かせたと言われています。 北斎は、この巨大な建造物と霊峰富士との対比を主題として作品を構成しました。 また、構図の着想には、河村岷雪の『百富士』巻一に収められた「玉嶌山」という作品からの影響も指摘されています。
本作は、多色摺りの木版画である錦絵として制作されました。 構図においては、北斎が得意とした近景のモチーフを大胆に拡大し、遠景に小さく富士山を配する「近像拡大型」の手法が用いられています。 画面手前には浅草本願寺の本堂大屋根が大きく描かれ、その上で働く瓦職人が小さく表現されることで、屋根の巨大さが強調されています。 屋根と同じ高さから町を見下ろすアングルも斬新です。
また、本堂大屋根が形作る大きな三角形と、遠くの富士山が形作る小さな三角形が相似関係にあるかのように構成されており、画面全体にリズムと安定感、そしてドラマチックな遠近感を与えています。 中景は雲によってほとんど省略され、その奥には凧が上がり、井戸採掘用の櫓も高く組まれ、大屋根の高さとの対比を生み出しています。
色彩は、当時新しく輸入された化学顔料である「ベロ藍」(プルシャンブルー)を基調とした「藍摺り」で、鮮やかな青が特徴です。 その中に、凧の朱色がアクセントとして配置され、画面全体を引き締めています。
「東都浅艸本願寺」は、単なる風景描写に留まらず、当時の庶民の富士信仰を色濃く反映しています。本堂の大屋根の上で働く瓦職人は、大屋根が富士塚と同様に富士の神霊を宿す場所であり、その頂上付近にいることは、富士登山と同じ意味を持つという解釈もなされています。 日常の営みの中に富士の神聖な世界が展開されている様子を描くことで、庶民の生活と富士山への憧れ、信仰心を結びつけていると言えます。 北斎ならではの奇抜で大胆な構図の中に、自然の力と人間の営み、そして静と動といった普遍的なテーマが凝縮されています。
「冨嶽三十六景」シリーズは、北斎芸術の集大成として国内外で高く評価されています。 本作を含むシリーズ全体の斬新な構図や卓越した遠近法は、歌川広重をはじめとする後世の日本の浮世絵師に大きな影響を与えました。さらに、19世紀後半にヨーロッパで興ったジャポニスムの潮流を通じて、ゴッホやモネといった西洋の画家や写真家にも多大な影響を与えたことで知られています。 「東都浅艸本願寺」もまた、その革新的な表現と深い精神性により、現在に至るまで多くの人々を魅了し続けています。