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武州玉川

葛飾北斎

葛飾北斎による浮世絵「冨嶽三十六景」から、「武州玉川」をご紹介します。この作品は、2026年3月28日から国立西洋美術館で開催される「北斎 冨嶽三十六景 井内コレクションより」展において初披露されるものです。

作品の背景と制作意図

葛飾北斎(1760-1849年)が70歳代に制作した連作浮世絵「冨嶽三十六景」は、当時の富士山信仰や富士参詣ブームを背景に生まれました。このシリーズは、江戸の人々が日常的に目にする富士山の姿を、様々な地域、角度、季節、気象条件から捉え、その表情の変化を描き出すことを意図しています。当初36図の予定でしたが、その人気から追加で10図が制作され、最終的に全46図となりました。

「武州玉川」は、現在の多摩川の中流域、東京都調布市や府中市あたりからの眺めを描いたものとされています。単なる風景描写に留まらず、庶民の日常と神聖な富士山の世界を結びつけようとする北斎の深い意図が込められています。

技法と素材

本作は、多色摺りの木版画、いわゆる錦絵として制作されました。特に注目されるのが、川面の細波の表現に用いられた「空摺(からずり)」という技法です。これは色をつけずに版木で紙に圧力をかけ、凹凸のみで模様を表すもので、水の流れの白い部分に繊細な波紋を生み出しています。この空摺は、初摺やそれに近い時期の摺りにおいて見られる手の込んだ技法であり、後摺では省略されることが多いとされています。

また、「冨嶽三十六景」シリーズの初期の作品には、当時ヨーロッパから輸入された「ベロ藍(ベルリン・ブルー)」という鮮やかな青い顔料が多く使用されています。これは、新しい素材を積極的に取り入れる北斎の探究心を示しています。

作品の意味

「武州玉川」は、近景の川辺に馬を引く農夫、中景に旅人を乗せて対岸へ向かう渡し舟、そして遠景にたなびく霞の向こうに堂々とそびえる雪をまとった富士山という三層の構図で描かれています。川面は速い流れを思わせるように、細かく波の文様が描き込まれ、船頭が懸命に舟を漕ぐ様子が表現されています。

この作品の構図には、深い象徴的意味が込められています。中景の霞によって対岸が隠されることで、川の流れと富士の山腹が一体となり、玉川そのものが富士山の一部であるかのように見せる視覚効果が用いられています。渡し舟や馬を引く人といった庶民の営みが、神聖な富士山の世界に包み込まれている様子が表現されており、日常の中に非日常的な趣を見出す北斎の創造性がうかがえます。静かで神秘的な情景の中に、北斎の水に対する鋭い観察眼が光る作品です。

作品の評価と影響

「冨嶽三十六景」シリーズは、その斬新な構図と卓越した表現力により、国内外で非常に高い評価を受けてきました。特に19世紀後半にヨーロッパで起こった「ジャポニスム(日本趣味)」のムーブメントにおいて、葛飾北斎の作品はモネ、ドガ、ゴッホといった印象派の画家たちに大きな影響を与えました。フランスの版画家アンリ・リヴィエールは「エッフェル塔三十六景」を制作し、音楽家クロード・ドビュッシーは交響詩「海」の作曲において「神奈川沖浪裏」から着想を得たと言われています。

北斎は、1999年にアメリカの雑誌『ライフ』が選出した「この1000年で最も偉大な功績を残した世界の人物100人」に日本人で唯一選出されるなど、国際的にその功績が認められています。また、日本のパスポートの査証ページや、2024年に発行が開始される新1,000円札のデザインにも「冨嶽三十六景」が採用されており、日本を象徴する芸術作品として広く認知されています。