長沢蘆雪
「春の江戸絵画まつり 長沢蘆雪」展にて展示される長沢蘆雪の《布袋図》は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した絵師、長沢蘆雪の独創性と、禅画への深い洞察が凝縮された作品です。
長沢蘆雪(1754-1799)は、丹波国篠山(現在の兵庫県中東部)に武士の子として生まれ、京都で円山応挙の門下に入りました。応挙の高度な写生に基づく画風を習得しながらも、蘆雪は早い時期から独自の表現を模索し始めます。その転機となったのは、33歳の頃、師・応挙の代理として紀州南紀(現在の和歌山県南部)の無量寺に赴き、多くの障壁画を制作した経験でした。この地で解き放たれた蘆雪は、師の作風から逸脱した奇抜な着想と大胆な構図、自由奔放で独特な画風を一気に開花させ、「奇想の画家」と称されるようになります。
布袋は中国に実在したとされる禅僧で、弥勒菩薩の化身とされ、福徳や円満、無邪気さ、豊かさの象徴として絵画の画題に多く取り上げられてきました。蘆雪が布袋図を手がけた意図には、こうした布袋が持つ伝統的な意味合いに加え、彼自身の奔放な性格や、見る人を楽しませ、驚かせたいというサービス精神が強く反映されていると考えられます。また、禅僧との交流が深かったことも、禅画の主題である布袋を描くことに繋がったと推測されます。現存する蘆雪の人物図には、高士が布袋図を鑑賞する様を描いた作品もあり、自身の晩年期(寛政期)に制作されたとみられています。
蘆雪の《布袋図》は、多くの場合、紙本に墨で描かれた水墨画と考えられます。流暢で柔潤な筆致を駆使し、墨の濃淡を巧みに生かすことで、布袋のふくよかな体躯や満面の笑み、あるいはその衣の質感などを表現したと見られます。簡潔な筆致で対象を捉えながらも、筆速や筆触の変化を利用することで、画面に動きと装飾性を与えるのが蘆雪の得意とした技法です。特定の作品では、輪郭線を用いずに墨や顔料で直接描く「付立(つけたて)」の技法も用いました。人物の顔には淡い朱、頭巾や着物の袖口には青墨系の墨彩色を施すこともありました。
作品には、蘆雪のトレードマークともいえる「魚」の朱文亀甲型印が押されていることがあります。この印は、修行時代の冬の朝、氷に閉じ込められた魚がやがて氷が溶けて自由に泳ぎ出す姿を見た蘆雪が、師・応挙から「修行の苦しみもやがて氷が溶けるように画の自由を得るものである」と諭された故事に由来すると伝えられています。この言葉を胸に刻み、生涯この印を使い続けたとされ、晩年の作品では、まるで自由を得たかのように印の右上が欠けたものが確認されます。
《布袋図》は、布袋の持つ福徳、円満、無邪気さといった象徴的な意味を基盤としつつ、蘆雪ならではの解釈が加えられています。彼の作品に見られる奇抜さやユーモラスな表現は、布袋という画題に、単なる吉祥の意を超えた人間的な魅力と生命力を吹き込んでいます。時にデフォルメされたり、愛嬌たっぷりに描かれたりする布袋の姿は、見る者の心を和ませ、笑顔を誘います。また、禅との関わりが深い蘆雪にとって、布袋は禅の精神性や悟りの境地、そして自由な生き様を表現する格好のモチーフであったとも考えられます。
長沢蘆雪は、師である円山応挙とは対照的な、大胆な構図、斬新なクローズアップ、奇抜で機知に富んだ画風を展開したことで高く評価されています。伊藤若冲、曾我蕭白と並び、現代では「奇想の画家」の一人に数えられ、その人気は日本国内に留まらず、海外でも高い評価を得ています。
蘆雪の作品は、応挙の高度な写実技法を完全に習得した上で、それを自身の鋭い自然観察眼と庶民的な機知を加えて昇華させたものと評されます。彼の絵画は、今日においてもまったく古びることがなく、その奇抜さの奥には、確かな観察眼、遊び心に満ちた慈しみ、そして卓越した描写技術が宿っています。見る人を驚かせ、楽しませ、そして感動させるという蘆雪の強い想いは、現代に生きる私たちにも鮮やかに伝わり、多大な影響を与え続けています。彼の奔放で破天荒な人生の逸話もまた、作品の魅力を一層際立たせる要素となっています。