ニルス・クルーゲル
東京都美術館開館100周年記念「スウェーデン絵画 北欧の光、日常のかがやき」展にて展示されているニルス・クルーゲルによる「ヴァールバリの海岸風景」は、19世紀末のスウェーデン美術における重要な転換点を示す作品の一つです。この絵画は、画家がフランスでの経験を経て自国スウェーデン、特に西海岸の町ヴァールバリで確立した独自の芸術様式を象徴しています。
ニルス・クルーゲル(1858-1930)は、スウェーデンを代表する風景画家です。1881年から6年間パリに滞在し、アカデミー・コラロッシで学びながら、戸外制作(プレイン・エア)の影響を受け、夜明けや夕暮れ、霧や雨、雪の中の風景を描きました。
1887年にスウェーデンへ帰国したクルーゲルは、西海岸の町ヴァールバリに居を構えました。1890年代初頭(具体的には1892年から1893年頃)、彼はリッカルド・ベリ、カール・ノードストロームと共に「ヴァールバリ派」を形成します。この派閥は、当時の主流であった写実的な風景画に対する反動として生まれ、印象派とは異なる「純粋な国民的ロマン主義」あるいは「スウェーデン象徴主義」の様式を追求しました。彼らの作品は、風景を客観的に描写するだけでなく、そこに画家自身の個人的な体験や感情を込めることを目指しました。
「ヴァールバリの海岸風景」が制作された1892年は、クルーゲルがヴァールバリ派の活動を始めたばかりの時期にあたります。この作品は、彼がヴァールバリのドラマチックな光と広大な風景を通して、スウェーデン人の国民的アイデンティティや内面的な感情を表現しようとした初期の試みの一つと考えられます。
「ヴァールバリの海岸風景」は、油彩でキャンバスに描かれた作品です。クルーゲルのヴァールバリ時代の初期の作品は、彼がフランス・グレ=シュル=ロワンで制作していた頃を思わせる軽やかな技法で描かれることもありました。彼のパレットはしばしば繊細で、落ち着いた青、緑、茶色が主体となり、静謐な感覚を生み出しています。薄い絵具の層を重ねることで、質感と奥行きを構築し、夜明けや夕暮れの幻想的な光を卓越した技術で捉えています。
ヴァールバリ派の画家たちは、ポール・ゴーギャン、そして特にフィンセント・ファン・ゴッホから強い影響を受けました。ファン・ゴッホが用いた方向性のある線や点描によって奥行きと質感を表現する技法は、クルーゲル自身も高く評価し、後に自身の作品に取り入れました。特に1894年秋以降、彼は特徴的な点描技法を用いるようになります。この「ヴァールバリの海岸風景」が描かれた1892年は、この点描技法が本格的に確立される直前の時期にあたり、クルーゲルの画風が写実主義からより表現的で主観的なスタイルへと移行していく過渡期の様相を示していると言えるでしょう。
ヴァールバリ派の芸術家にとって、自然は国民的アイデンティティの重要な要素として捉えられました。クルーゲルの風景画は単なる景色の描写に留まらず、形式と感情、現実と画家の内面的な主観性の象徴的な融合を目指しました。
「ヴァールバリの海岸風景」に見られるヴァールバリの沿岸風景は、その地域の劇的な光と広大な自然を通して、スウェーデンという国の本質、そしてそこに生きる人々の感情を表現しようとするものです。クルーゲルの作品にしばしば登場する放牧された牛や馬は、スウェーデンの風景と経済における田園生活の中心的な役割を示唆しています。
ニルス・クルーゲルは、スウェーデン絵画史において重要な位置を占める画家であり、ヴァールバリ派の中心的な人物として、写実的な風景画からの脱却と純粋な国民的ロマン主義様式の確立に大きく貢献しました。ヴァールバリ派が印象派からスウェーデン象徴主義へと移行したことは、スウェーデン美術の発展において画期的な出来事でした。
彼の作品は、ストックホルムの国立美術館をはじめとする主要な美術館に所蔵されており、「ヴァールバリの海岸風景」もまたスウェーデン国立美術館のコレクションの一部です。また、クルーゲルの作品は、日本の葛飾北斎の作品にルーツを持つゴッホのスケッチを研究していたことから、スウェーデン美術におけるジャポニスムの一例としても認識されています。
今回、東京都美術館で開催される「スウェーデン絵画 北欧の光、日常のかがやき」展は、19世紀末から20世紀にかけてのスウェーデン絵画が近年国際的に注目を集めていることを示しています。クルーゲルの作品は、この展覧会において「壮大かつ厳粛な風景画」というヴァールバリ派の典型的な表現を示すものとして紹介されています。フランスで学んだ写実主義や自然主義を起点としながらも、やがて「スウェーデンらしい」感性へと回帰し、「北欧の光」や夕暮れ、薄明の繊細なニュアンスを強調したスウェーデン美術の特質を伝える上で、クルーゲルの「ヴァールバリの海岸風景」は不可欠な作品と言えるでしょう。