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髪をとかす女 Woman Combing Her Hair

エドガー・ドガ Edgar Degas

オルセー美術館所蔵「印象派―室内をめぐる物語」展に展示されるエドガー・ドガの作品《髪をとかす女》は、1896年から1899年頃に木炭とパステルを用いて紙に描かれたものです。

作品の背景と意図

エドガー・ドガは、19世紀後半のフランスにおいて、印象派の画家の一人と目されながらも、自身は「印象派」という呼称をあまり好まず、「現代生活の古典画家」と自らを位置づけていました。彼は光と色彩の瞬間的な描写よりも、構図と線の美しさを重視しました。 ドガの制作活動の晩年にあたるこの時期は、彼の視力が低下していた時期と重なります。この視覚の変化は、彼の作品のスタイルにも影響を与え、油彩画よりもパステル画を多用し、より大胆な線と鮮やかな色彩で対象を捉えるようになりました。 《髪をとかす女》に代表される、女性が身づくろいをする姿や入浴する姿といった日常の私的な瞬間を描くことは、ドガが生涯を通じて繰り返し取り上げたテーマです。彼は、伝統的な裸婦像のような観る者を意識したポーズではなく、猫が身を舐めて清めるように、女性自身が自身の身体に没頭している「素朴で、正直な」姿を描こうとしました。これにより、鑑賞者はまるで鍵穴から覗き見ているかのような錯覚を覚えるほどの、リアルで私的な情景が創出されています。

技法と素材

この作品は、木炭とパステルが紙に用いられています。ドガは晩年、視力低下が進んだことにより、油彩よりもパステルを頻繁に用いるようになりました。パステルは顔料を固めたチョーク状の画材で、乾燥を待つ必要がなく、鮮やかな発色が得られるという特性を持っています。 ドガはパステルを多層に塗り重ねる独自の技法を開発し、顔料を擦りつけることで、紙の繊維を浮き上がらせて独特の質感を生み出しました。また、彼はパステルを蒸気で柔らかくしたり、ペースト状にして使用するなど、様々な実験を行っています。肌の表現においては、ピンク色を際立たせるために、あえてチャートリューズ色や緑色といった「反自然的な」色を強調することもあったとされ、これはスーラやゴッホのような同時代の画家の補色に対する探求に影響を受けた可能性が指摘されています。 本作品に見られるような、木炭による柔らかなぼかしと赤茶色のパステルによる表現は、髪や肌の質感を巧みに描き分けており、彼の晩年の特徴である太い線が、髪をとかす人物の一瞬の動きを捉えています。ドガは、紙が絵具の油分を吸い取り光沢のない仕上がりになることや、構図を試すために容易にカットしたり継ぎ足したりできることから、キャンバスよりも紙を好んで使用しました。

作品が持つ意味

《髪をとかす女》は、女性が髪をとかすという日常的な行為を描いていますが、この主題は文学や美術の歴史において、伝統的に様々な寓意や性的な意味合いを担ってきました。ドガの作品では、女性の表情が明確に描かれず、鏡に向き合っているため、鑑賞者は彼女の内面を探ることができない構図となっています。これにより、作品は女性の私的な行為を客観的に、そして批評的に捉えるドガの視点を反映していると言えます。 彼の作品は、当時の社会において女性に与えられていた役割や、その日常の営みの中にある「不便さ」や「痛み」を内包しているという解釈もあります。ドガはバレリーナたちの訓練の厳しさや舞台裏の苦労を描いたように、華やかさの裏にある現実をも見つめる眼差しを持っていました。

評価と影響

ドガは、モネやルノワールといった典型的な印象派の画家たちとは異なる独自のスタイルを確立しました。彼の作品は、光の表現よりも構図と線の美しさに重きを置き、写真や日本の浮世絵、特に葛飾北斎からも強い影響を受けて、大胆な構図や平面的な色彩表現を取り入れました。 生涯にわたり制作の基盤を古典的なデッサンに置きながらも、パステルや版画など多岐にわたるメディアや革新的な技法を積極的に試みたドガは、後世のアーティストたちに大きな影響を与えました。彼の作品は、人間の姿や動きを美しく、そしてリアルに表現する力が高く評価され、現在も世界中の美術館で展示され、多くの人々を魅了し続けています。