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ピアノを弾くディオー嬢 Mademoiselle Dihau at the Piano

エドガー・ドガ Edgar Degas

オルセー美術館所蔵「印象派―室内をめぐる物語」展より、エドガー・ドガの作品「ピアノを弾くディオー嬢」をご紹介します。この作品は1869年から1872年にかけて制作された油彩/カンヴァスです。

制作背景と意図

エドガー・ドガは、クロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールといった同時代の印象派の画家たちが戸外の光と色彩を追求したのに対し、一貫して屋内の情景や人物の描写に注力しました。彼は「印象派の異端児」とも称され、アトリエでの入念なデッサンと構成を重視し、写真や日本の浮世絵から影響を受けた大胆な構図を用いて、対象の瞬間的な動きや心理を捉えることに長けていました。

「ピアノを弾くディオー嬢」のモデルは、ドガの友人であり、彼が「オペラ座のオーケストラ」にも描いたファゴット奏者デジレ・ディオーの妹であるディオー嬢です。ドガはディオー嬢を、ピアノを弾くという19世紀のブルジョワ階級の女性にとって典型的な室内での活動の中に描きました。この作品は、単なる肖像画に留まらず、日常生活の一場面を切り取り、人物の内面やその場の雰囲気を深く探求しようとするドガの制作意図を反映しています。ドガは戸外の写生よりも、肉体の造形や人物が織りなす心理的なドラマを室内で研究することに興味を持っていました。

技法と素材

本作は油彩/カンヴァスという古典的な素材で描かれています。ドガの技法は、他の印象派画家に見られるような即興的な筆致とは異なり、デッサンを基盤とした堅固な構成が特徴です。彼はガス灯などの人工的な光の表現にも優れており、室内空間に独特の現実感と奥行きを生み出すことに才能を発揮しました。また、鑑賞者の視線を誘導するような斬新なアングルや画面の切り取り方は、写真の普及や浮世絵からの影響を強く感じさせます。細部に至るまで計算し尽くされた構図は、一見自然な光景に見えながらも、ドガの芸術的な熟慮の結晶と言えます。

作品の意味

この作品は、19世紀のパリにおける中産階級の生活、特に女性の私的な領域としての室内空間を象徴しています。ピアノを弾くという行為は、当時の女性にとって教養や優雅さを示すものであり、家族の団欒や個人の内省的な時間と結びついていました。ドガは、ディオー嬢がピアノに向かう姿を通じて、その人物が持つ個性や、静かに流れる時間の中に存在する心理的な緊張感を表現しようと試みています。描かれたディオー嬢の姿からは、音楽に没頭する一人の女性の穏やかな表情や、室内空間特有の親密な雰囲気が伝わってきます。

評価と影響

「ピアノを弾くディオー嬢」は、ドガが室内画や人物画の分野で発揮した卓越した観察眼と描写力を示す作品の一つとして評価されています。印象派展にも多くの室内画が出品されており、ドガはその中でも特に心理的な深みを持つ作品で本領を発揮しました。

この作品は後世の画家にも影響を与え、例えばアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは、ドガを敬愛するあまり、同じディオー嬢をモデルに「ピアノを弾くマリー・ディオー嬢」を描いています。ロートレックは自身の作品をドガの作品の隣に並べてほしいとディオー嬢に贈ったとされ、ドガへの強い尊敬の念が伺えます。フィンセント・ファン・ゴッホもまた同時期に類似の主題で「ピアノを弾くマルグリッド・ガシェ嬢」を描いており、当時の画家たちが「ピアノを弾く女性」というモティーフに高い関心を持っていたことがわかります。オルセー美術館が所蔵するこの作品は、「印象派―室内をめぐる物語」展において、印象派が風景画だけでなく、近代都市の私的な生活空間にも深い関心を寄せていたことを示す重要な例として展示されています。